第14回 本宮町備崎・黒尊佛・敷屋・篠尾川周辺巡検 
2016.11.05
第14回 本宮町備崎~黒尊仏~敷屋~篠尾川周辺巡検
 晴天  参加者17名
  <<行程>>
<9:10> ・出発  滝尻駐車場(乗合せ)R311本宮へ
<10:00>・到着  本宮町備崎(そなえざき)S氏レクチャー 備崎遺跡
        「磐座・洞窟群と埋経所とその他」について。 
         紀南文化財研究会「熊野」資料参照
<10:50>・トイレ休憩@請側
<11:15>・到着  大津荷黒尊佛(くるそんぶつ) 熊野層群の泥岩を
         貫入して出現している石英斑岩(火成岩)
        「続風土記」には疱瘡(ほうそう 天然痘)の神様としてあがめられた
         と記載
         集合写真
<12:30>・昼食  熊野川河原
<13:10>・到着  東敷屋~西敷屋 S氏レクチャー 
         敷屋庄の御師・敷屋氏と見座氏について。(別紙資料参考)
<13:40>・到着  丸島橋 褶曲を観察
<13:45>・到着  発電所の送水管を上から見学
         この送水管は十津川の二津野ダムより椋呂(むくろ)まで送水し
         発電されている(地理院地図には破線で送水管を記録)
<13:55>・到着  篠尾渓谷① 河原のタービダイトと褶曲見学(福田氏
         バンダナ目印)
<14:15>・到着  篠尾渓谷② 河原の褶曲 ①よりも川幅が広く河原に
         降りやすい
<15:00>・到着  篠尾集落 トイレ休憩
<15:30>・出発  Nさん&区長さんの案内で、夫婦(めおと)滝周辺と
         平屋敷家・下ノ坊家石垣見学&集合写真
<16:20>・終了  帰途につく
<17:15>・解散  滝尻駐車場
  <<巡検内容・説明コメント>>
今回の巡検・見学は、地質の先生のご都合がつかず、当会員S氏の”歴史民俗学”レクチャーが主となった。参加者は目の当たりにした遺跡や景観に往年の栄華・往時の人々の願望をオーバーラップさせていた様子が印象的であった。(*****)田辺市以外の南紀熊野ジオパーク北エリア熊野川町敷屋~篠尾集落周辺を訪れた理由の一つには、田辺市本宮町大津荷(田辺市最東端)から、車で数分という近さであった事もあり、結果、現西敷屋の小山神社の存在が、東敷屋・篠尾・四村荘・小津荷・大津荷・津荷谷地域一帯にとって重要な存在であったことも伺える。敷矢一族の歴史を紹介した看板もあり、下方に写真と内容を網羅したので、一読を。
このエリアの地域キーワードは熊野本宮大社、玉置山(玉置神社)、山岳信仰、川の参詣道等であろうが、当時の人々のルートに対する思考は尾根道を介するルートであった。S会員より御師のお話があったが、玉置神社へのガイド・宿泊所提供であったようであり、篠尾集落北部には玉置山に向かうルートがあったようである。地質的には篠尾周辺に日高川層群付加体(竜神層)、音無川付加体、熊野層群が交差しており、その中に大峰酸性岩体、熊野酸性岩体が偏在し変化に富んだ場所である。道中素晴らしい篠尾川渓谷(音無川層群褶曲含む)を楽しみ、篠尾集落到着が予定より2時間弱遅れとなってしまった。11月6日の「龍神さま」お祭り準備でご多忙にもかかわらず集落のみなさまは、快くおもてなしいただいた。また、数日前、篠尾渓谷褶曲場所目印のご配慮頂いた、南紀熊野ジオパークガイドH、F両氏 にも感謝。
***** 関係資料は最下部に表示・提示(1:熊野本宮備崎 発掘調査報告書 2:紀南文化財研究会 熊野 No.132/133)

黒尊佛へのGPSルート 如法山の北部です。

小雲取越 熊野参詣道(古道)の近く 右下に見る形になる。

夫婦滝へのGPSルート 甲森のほぼ西方です。


世界遺産 備崎案内板の説明内容を以下に記します。
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史跡 備崎経塚群
経塚は、平安時代後期に広まった末法思想の影響から釈迦入滅の56億7千万年後といわれる弥勒仏の出現まで貴重な経典や仏像を残す目的や、極楽浄土への往生現世利益を願って書写した経典等を納めるために造営されたと考えられている。
備崎経塚群は、熊野本宮大社旧社地大斎原の熊野川を挟んだ対岸、七越峰から西に延びる
尾根尖端の北斜面に所在し、経塚が広範囲に分布している宗教関連遺跡である。
平成13年度に実施された発掘調査によると、主要形態は地山を掘りくぼめて埋納スペースを造るもの、地山を深く掘り側壁に板石を並べ底部に板石を配置し函状にするもの、地山をほとんど掘らずに河原石などで天井まで積み上げてスペースを造るもの等がある。
出土遺物は経筒片(銅製・土師質製・瓦質製・陶質製・陶製)、外容器とされる龜(土師器・陶器)、壺(陶器)、土師器・杯、瓦器・皿、合子(陶器・磁器)、銅製仏像(薬師如来立像)、銅鏡、火打ち鎌など多数あり、平安時代から鎌倉時代まで経塚信仰が営まれていたことがわかる。
 周辺一帯には、露呈する大きな岩塊が点在していることから、備崎経塚群は自然崇拝を根源とした古代信仰の形態をうかがい知ることができる貴重な遺跡で、山頂側にある平坦地は「宿」のひとつ「備の宿」があったと推定されている。












下の写真の内容を以下に記します。
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敷矢重市良兼種公と一族の遺業及遺領

敷矢重市良兼種公は今を去る約七百年前源家の為に一の谷に滅した平家正系の
子孫なり。
即ち公の祖先は源平の戦いに敗れて後、紀州に入り日高の地に居して栄えたり。
紀姓を名乗る道成は日高の一寺を建立する際、その建立奉行となり、己の名を
この一寺におくり道成寺と号せり。現今の道成寺の肇めなり。後浪人して南紀に
至り当敷屋に到る。此の地にて上は三里より下は田長に至るまでその所領とし
敷屋氏紀姓を名乗り領主となる。然れどもその子なき故に頼朝によって誅(ちゅう)
せられ千葉大輔胤成の子流浪して熊野に入りたるを養いて家系を継がせり。
それより古文書に名のあらわせる紀兼能、紀兼政、紀兼吉、紀兼文と代を重ね
兼種に至れり、兼種公よくその領地を治め、田畑を広め、田水不足を補うため
現猪の谷に残れる堤は公の為せる業なり。
道成より四百年間敷屋一帯の田畑を拓けるは皆この敷矢一族の功なり。
兼種公、慶長七年三月四日病没、戒名開基南光院殿古鑑巌心大居士となり長昌寺
に入滅す。良兼公病没後はその家盛全くおとろえ、没後数年にして、その子は
追われ十津川小山手に逃れ、この地に住す、姓を千葉弾正と名乗り現在に至るも
その子孫は続き、小山手に残れり。
毎年四月四日数百年来寺屋敷における祭礼はこの東敷屋開祖というべき敷矢一族
の遺業を偲びその霊を慰むる所以のものなり。
               東敷屋信徒総代
                 発起人    上地市之丈
                 世話人    上地秀義
                 宮相小    畑繁三郎

敷矢一族屋敷跡

























*****備崎関係資料

玉置山山頂付近図・枕状溶岩分布

玉石社概略図

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