第33回 三栖廃寺跡・真砂家屋敷跡周辺散策
2021.03.14
        <行程は以下の通り>
集合場所 9:00  JA三栖支所駐車場
         珠簾(みす)神社 
         左会津川河原で牟婁層群露頭
         中三栖組大庄屋真砂家屋敷跡
         三栖廃寺
         衣笠城跡 昼食
         報恩寺(善光寺)33ヶ所巡り含む
         JA三栖支所解散(15:00)


タジケン ジオ女 KKさんより早速に投稿いただきました。

震災後10年の3月14日、NHKで関連番組を見続けた1週間が過ぎ漸く春の陽射しの中に出て見た 三栖の風景は、 常緑樹の、緑の葉うらに光さんざめく豊かさの中にあった。
「アリガタイ」 三栖大庄屋 真砂家住居。798年から記録が残り 現在72代目が守られている庭を見せて頂く。 そのすごさ、山茶花の巨大古木。末枝に産毛あり 触れるといつまでも心地良し。ヤバい❗ お隣の椿には それがない、数えきれない紅のぷっくり蕾をつけ 陽光を受けて ここそこに咲き誇る10cm大の満開世界 風が、揺らす 花が、重い。 すると 熊野古道 清姫伝説のモデルとなったご先祖のお二方 美女の清姫と 頭に角を持つと修験僧に言われた玉姫が 歩き始める。栗栖川からここ三栖に空間移動された様な、庭の、草土が急に柔らかく感じられ 三つ井戸の水滴の音が聞こえる 錯覚。
やがて秀吉紀州攻めを、自らの切腹で押しとどめ 真砂一族を存続させた53代目の墓と言われる墓所へ。その名は友家、「友」が代々つく当主たちは 三栖の治水に務めた。日本が天変地異と災害に見舞われた8年後の1868年に建てられた母家を一周 北西にある薬師堂へ。お堂脇にかけられた数々の耳石、ギリシャやスペインの教会にもあるという常民の、祈り石が乾いた音をたてている。目に見えない確かさ。聴こえてくるご先祖さま達の心の豊さ。
「お薬師さまはきている」エピソードも笑いか、こぼれる面白さ。真砂屋敷から 車で5分行くと 真砂一族より以前 白鳳時代 三栖に鎮座していた三栖廃寺の跡が。 あの法隆寺式伽藍があったという柱の礎石いしと うろこ模様の瓦たちが 梅畑の剪定の音の中でのんびりとお昼寝ふう。その後一行は 衣笠城跡にのぼり 田辺湾(白浜 椿の高層ホテルこみ 天神崎をのぞむ)をほおばる。 おにぎりモグモグ ガスボンベで湯沸かし、こりゃ災害対応策じゃと談笑。
トリは報恩寺(名前忘れました) 臨済宗妙心寺派の本堂前の見事な蘇鉄(ソテツ)。これ又風格が ヤバっ(蕪村のソテツ図を連想させる)噂では関西一とか。 出迎えてくれたのは 以下数々の草花、いわひばの青々姫、ハギ紫オシベの元気さ、紫背スミレのおいでおいで揺れ、高野ボウキの綿毛ふわふわ、小葉ノミツバツツジのピンク色の上品さ、西国33ヶ所ミニミニ巡りを終えさせて頂いて眼前に開けたのは,境内の早咲きさくら満開を手前に見事に手入れされた寺の伽藍 その向こうに衣笠山(秋津 三栖 田辺市内を分ける)ドーンと さらに奥には大坊のみかん山チラリ左から龍神山、三ツ星、高尾、槇山と眺め広がり、豊かな三栖のさわやかな風が吹き上がってきた。生かして頂いて「アリガトウございます」の一日。 お世話頂いたジオ研の皆さま 楽しくて やがて楽しき 楽しくて 愉しくての春の一日」ごっつあんです☺️
読み返して誤字脱字ご免なすって。「お薬師さまは生きている」の逸話は あの山本先生が、照らして見せて下さった鎌倉時代の薬師仏は 江戸時代に盗難に会ったとか。しかし逃げる途中、 仏はどんどん重くなり 仏を売った金をとるか押し潰されそうな自分の身体を救うか、答えは簡単なこと。️ ということで再び真砂家の薬師堂にお座りになられて居らっしゃるとか。「ありがたい!」因みに案内下さった真砂家の末裔は ジオ女の間で「薬のゆうさん(ご職業)」と呼んでいましたが 代々医学に関係を持ち続けた真砂家の、DNAに納得というオチ付きでした。

1.幹回りは5~6mくらいありそうな立派なご神木

2.左会津川ですが、地元の知人は三栖川と呼んでいます。

3.河原には瓜谷層の石ころがあっちこっちに顔を出している

4.結構大きなモクズガニだったようだ

5.河原にぽつりぽつりとセイヨウカラシナの姿も

6.あ!? ナナホシ?

7.天正18年(1590年)57代忠知の時代に栗栖川から中三栖村にお引越しされたようです

8.安政大地震で最初の屋敷倒壊後、混乱の世の中で6年がかりで出来た屋敷らしい

9.モウソウダケに取り囲まれ苦しそうなカゴノキ 縁者は「助けたい!」

10.灯篭の文字を判読中 

11.サザンカの枝にはやわらかい沢山の産毛が生えている!

12.直径12cmはありそうな大輪の八重ツバキ

13.見たこともないサザンカの大木!

14.敷地内には3つの井戸がありました

15.ちょっと失礼します

16.こちらの手水鉢は音無川層群ようも見えますが・・・

17.手入れの行き届いた薬師堂

18.57代忠知さんのお墓もありました

19.次は白鳳時代創建といわれる国指定史跡の三栖廃寺へ

20.三角の心礎と周りには丸い礎石が等分に配置

21.心柱を受ける凹柱座や舎利を収める孔が穿たれているようです

22.基壇の南側前面には自然石を積んだ階段が残っていました

23.234mの衣笠山からの眺めもすこぶる絶景!

24.逆光だったけど紀伊水道をバックにパチリ!

25.今度は衣笠城跡碑の前で♪「ハイ!ウィスキー」

26.田辺市指定文化財
史跡 衣笠城跡(きぬがさじょうあと)
指定年月日 平成五年七月八日
衣笠城については、江戸時代の「紀伊続風土記」(しょくふどき)
に「文永の頃愛洲八郎源経信の居城なりといふ」と書かれている。文永年間(1264-74)は鎌倉時代中頃にあたる。別名、愛洲城。鎌倉時代中頃から 当地に勢力をもっていた愛洲氏は
南北朝時代に南朝方につき、北朝方の日高の湯川民などと 争ったが、南朝が衰亡すると、勢力を失った。応仁の乱 (1467-77)が起こるころ、当地でも中央の諸有力武将につながる群雄が抗争を繰り返し、長禄元年(1457)から翌 年、衣笠城を中心とする功防戦があったとも伝えられている。戦国特代 終わりころには、城主小牧氏が千光寺の勢力と戦い、落城したといわれている。城は上段中段下段の曲輪(くるわ)(陣地や屋數の為の平な土地) で構成され、これに上段・中段の曲輪を取り巻く帯曲輪(おびくるわ)が付けられている。各曲編の辺には、高さ1M程度の土塁が築かれ、広い中、下段の間には、大小ニ列の空堀が 設けられ、その岸にも土塁が築かれており、東方の防備は厳重である。西方にも空堀があったが、今は失われている。

田辺市教育委員会


27.今回は市観光ボランティアガイドのベテランさんから説明頂く(当会メンバー)

28.いつもと同じmyランチで 

29.ほぼ予定通りのランチタイム 景色は最高の「お・か・ず」

30.午後からは、上富田側に近い三栖の報恩寺へ 近畿で一番大きなソテツらしい

31.さあ!これから33ケ所巡りに向かいます

32.自分で自分を締め付けているネズミモチの根っことお隣のハゼノキさん

33.ふわふわの冠毛植物はコウヤボウキ

34.ここは前弧海盆堆積体田辺層群なりー

35.イワヒバがしっかりと根付いている

36.遠望の丸いお山は田辺のシンボル「高雄山」606m

37.この資料はもう一度目を通さなくては!

38.地質図では眼下の平野は沖積平野になっています。 あー今日も楽しかった♪

2021.03.14 22:18 | 固定リンク | 研究会活動履歴

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