田ジ研自主研修 三重県熊野市紀和鉱山資料館・その他探訪
2018.01.27
寒波到来の晴天の中、田ジ研の有志4名にて熊野市紀和町「紀和鉱山資料館」とその近辺の巡検をいたしました。資料館では1月限定のイベントが開催されていて、資料館のH学芸員に多くの説明をいただくとともに、たくさんの質問に回答いただきました。
紀州鉱山の歴史がある程度理解できました。一般には紀州鉱山と呼ばれていますが、鉱山自体は名前が其々場所ごとに名前があった模様で、江戸時代には13地区にそれぞれの坑道に○○銅山という名前がついていたようです。紀州鉱山自体の坑道の長さは約330キロメートルもあり、昔からの坑道を含むともっと大きな長さになるのでしょう。選鉱場跡を見学した後、企画展「石の中の銀座」イベントを観察、常設展示では紀和町の鉱山の歴史を興味深く知ることができました。昔の鉱山の坑道では水との闘いが大きかったようで、採掘、運搬、選鉱、坑道普請、換気、排水等グループで専門的にプロセスを担当していました。楊枝川に存在する水車谷遺跡には節の間が長い紀和竹という竹があり、坑道の空気換気に利用されました。ひとしきり展示を楽しみ、入鹿中学校近辺の空き地、兼「慈雲寺」の綺麗な石垣の下にて野外昼食&Iru Cafe(コーヒー)を楽しみました。入鹿中学校近辺に存在するという板屋断層、探しましたが、見つけられませんでした。その後は、資料館の川向こうにあるズリ捨て場に行き、ズリをハンマーで叩きに叩きました。少しはストレス解消になったでしょう。最後は、熊野酸性火成岩体の一族山・山頂近くの布引の滝を訪問して、楊枝川を下り、168号に出て帰途につきました。
1.風は冷たかったが晴天♪
2.
こちらの岩は「金銀鉱石」、「ぎんぐろ」と呼ばれる黒い部分に、微量の金や銀を含む2トンの原石です。昭和30年代(1955)の紀州鉱山では金の含有量は1トンあたり平均17グラム。
これは世界平均の2~3倍の含有量で、毎月300トンペースで金銀鉱石を産出していました。
3.さすがです。H学芸員さん
4.石原産業株式会社時代の選鉱場跡の絵画
5.山の斜面を利用して下方に選別する仕組み
6.廃墟と化した現在の姿に足が暫く止まる
7. 1~11号隧道まで続く発着トンネル入口
8.数万人の通勤通学に利用されていたトロッコ
9.
10.
11.紀州鉱山の大蛍石
12.
13.
14.
鎌倉時代、南北朝時代、室町時代に数々の名刀を残した「入鹿鍛冶」がいつ頃から紀和町の入鹿地区に移住してきたか明らかではありませんが、鎌倉時代の末期であろうと考えられています。その後、安土桃山時代に秀吉の「紀州征伐」により入鹿一族が滅ぶとともに入鹿鍛冶は和歌山県粉河に移住しました。
*真剣の展示があったはずだが、見落としたかも知れません。
15.
16.1 金が通る=>鉱脈
16.2 下のほうに一族山が描かれていますので、もっと北のエリアに鉱山があった模様
=>23.参照
16.3↓
703 紀州「楊枝鉱山」自然銀を献上
743 「熊野銅山」より東大寺大仏鋳造に利用
1337 紀州楊枝川「大谷銅山」の採鉱開始
17.↓
1673 紀州 湯の口村「室谷鉱山」が開削される
1802 紀州楊枝川・水車谷付近で鉱山隆盛 労働者の流入
1854 紀州「楊枝銅山」「那智銅山」が若山藩より新宮藩に委譲
18.↓
1871 新宮藩が「楊枝銅山」銅鉱の廃止届け
1873 紀州「薬師炭鉱」の採掘が始まる
1934 石原産業が諸鉱区を買収・「紀州鉱山」を開設
1944 「紀州鉱山」が軍需会社に指定・英国兵捕虜300名が就労
1978 「紀州鉱山」閉山
19.
20.
21.
1934 石原産業-紀州鉱山を開設
↓
1941 板屋~阿田和駅間に前兆4.7キロの架空索道を開設
↓
1944 軍需会社に指定 英国兵300名の就労
↓
1965 全盛期-3000トンの産銅量
1978 紀州鉱山の閉山
22.
紀和町の地質
紀和町には、大規模な火山活動が起こったことを示す、火成岩体(熊野酸性火成岩類)、これより古い時代に浅海底であったことを示す地層群(熊野層群)、さらに古い陸棚(りくほう)
斜面より深い海底であったことを示す地層群(日高川層群)が分布しています。そして紀和町を大きく特徴づけるものは、銅を主とする金属鉱床があって、古くから鉱山が開かれていたことです。
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34.↓
紀和竹という不思議な竹があります。水車谷は楊枝川の途中にあります。
35.
36.綺麗な石垣です。
37.
38.iru cafe=入鹿fe
39.ツエノ峰を見ています。建物は入鹿中学校
40. Yさん、叩いて割って....
41.
42.
43.鉱石の捨て場は太陽光発電場所に変身。
44.布引の滝へ行く途中に巨石(流紋岩か)がごろん。
45.柱状節理
46.
47.花崗斑岩地帯です。
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紀州鉱山の歴史がある程度理解できました。一般には紀州鉱山と呼ばれていますが、鉱山自体は名前が其々場所ごとに名前があった模様で、江戸時代には13地区にそれぞれの坑道に○○銅山という名前がついていたようです。紀州鉱山自体の坑道の長さは約330キロメートルもあり、昔からの坑道を含むともっと大きな長さになるのでしょう。選鉱場跡を見学した後、企画展「石の中の銀座」イベントを観察、常設展示では紀和町の鉱山の歴史を興味深く知ることができました。昔の鉱山の坑道では水との闘いが大きかったようで、採掘、運搬、選鉱、坑道普請、換気、排水等グループで専門的にプロセスを担当していました。楊枝川に存在する水車谷遺跡には節の間が長い紀和竹という竹があり、坑道の空気換気に利用されました。ひとしきり展示を楽しみ、入鹿中学校近辺の空き地、兼「慈雲寺」の綺麗な石垣の下にて野外昼食&Iru Cafe(コーヒー)を楽しみました。入鹿中学校近辺に存在するという板屋断層、探しましたが、見つけられませんでした。その後は、資料館の川向こうにあるズリ捨て場に行き、ズリをハンマーで叩きに叩きました。少しはストレス解消になったでしょう。最後は、熊野酸性火成岩体の一族山・山頂近くの布引の滝を訪問して、楊枝川を下り、168号に出て帰途につきました。
1.風は冷たかったが晴天♪
2.
こちらの岩は「金銀鉱石」、「ぎんぐろ」と呼ばれる黒い部分に、微量の金や銀を含む2トンの原石です。昭和30年代(1955)の紀州鉱山では金の含有量は1トンあたり平均17グラム。
これは世界平均の2~3倍の含有量で、毎月300トンペースで金銀鉱石を産出していました。
3.さすがです。H学芸員さん
4.石原産業株式会社時代の選鉱場跡の絵画
5.山の斜面を利用して下方に選別する仕組み
6.廃墟と化した現在の姿に足が暫く止まる
7. 1~11号隧道まで続く発着トンネル入口
8.数万人の通勤通学に利用されていたトロッコ
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11.紀州鉱山の大蛍石
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鎌倉時代、南北朝時代、室町時代に数々の名刀を残した「入鹿鍛冶」がいつ頃から紀和町の入鹿地区に移住してきたか明らかではありませんが、鎌倉時代の末期であろうと考えられています。その後、安土桃山時代に秀吉の「紀州征伐」により入鹿一族が滅ぶとともに入鹿鍛冶は和歌山県粉河に移住しました。
*真剣の展示があったはずだが、見落としたかも知れません。
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16.1 金が通る=>鉱脈
16.2 下のほうに一族山が描かれていますので、もっと北のエリアに鉱山があった模様
=>23.参照
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703 紀州「楊枝鉱山」自然銀を献上
743 「熊野銅山」より東大寺大仏鋳造に利用
1337 紀州楊枝川「大谷銅山」の採鉱開始
17.↓
1673 紀州 湯の口村「室谷鉱山」が開削される
1802 紀州楊枝川・水車谷付近で鉱山隆盛 労働者の流入
1854 紀州「楊枝銅山」「那智銅山」が若山藩より新宮藩に委譲
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1871 新宮藩が「楊枝銅山」銅鉱の廃止届け
1873 紀州「薬師炭鉱」の採掘が始まる
1934 石原産業が諸鉱区を買収・「紀州鉱山」を開設
1944 「紀州鉱山」が軍需会社に指定・英国兵捕虜300名が就労
1978 「紀州鉱山」閉山
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1934 石原産業-紀州鉱山を開設
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1941 板屋~阿田和駅間に前兆4.7キロの架空索道を開設
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1944 軍需会社に指定 英国兵300名の就労
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1965 全盛期-3000トンの産銅量
1978 紀州鉱山の閉山
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紀和町の地質
紀和町には、大規模な火山活動が起こったことを示す、火成岩体(熊野酸性火成岩類)、これより古い時代に浅海底であったことを示す地層群(熊野層群)、さらに古い陸棚(りくほう)
斜面より深い海底であったことを示す地層群(日高川層群)が分布しています。そして紀和町を大きく特徴づけるものは、銅を主とする金属鉱床があって、古くから鉱山が開かれていたことです。
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紀和竹という不思議な竹があります。水車谷は楊枝川の途中にあります。
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36.綺麗な石垣です。
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39.ツエノ峰を見ています。建物は入鹿中学校
40. Yさん、叩いて割って....
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43.鉱石の捨て場は太陽光発電場所に変身。
44.布引の滝へ行く途中に巨石(流紋岩か)がごろん。
45.柱状節理
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