第22回 岡公園~和歌山城~(旧)和歌浦(玉津島神社・妹背山付近)
2018.08.25
第22回 岡公園~和歌山城~(旧)和歌浦(玉津島神社・妹背山付近)巡検
2018 0825

<行程>
<10:00> 和歌山城駐車場に集合
<10:10> 岡公園探索 
<11:30> 和歌山城 石垣探索
    ===昼食===
<13:15> 和歌山城 裏坂
<14:00> 和歌山城 天守閣
<15:00> 和歌山城 退城
<15:45> 旧和歌浦(玉津島神社・妹背山付近)
<16:50> 現地解散

     和歌山城と片男波海岸の岩石を観察してきました!!

台風一過、青空の広がった8月25日(土)、中屋志津男先生のご指導のもと、和歌山城の石垣と片男波海岸の岩石を観察してきました。暑さがぶり返し、木陰と涼風が恋しい一日でしたが、参加者一同、紀南では見られない結晶片岩の観察に熱心に取り組みました。
はじめに、お城の南にある岡公園で往時の石切場跡を見学し、三波川帯(*)の結晶片岩が、さまざまに分類されることを教わりました。苦鉄質(塩基性)片岩、珪質片岩、泥質片岩、砂質片岩、などです。まず公園の入口付近にある緩やかに褶曲している岩体は、石英片岩であり珪質片岩の一種です。さらに奥や上の方には、いわゆる「青石」と呼ばれる緑泥片岩が見られましたが、これは苦鉄質片岩(マグネシウムや鉄に富む)に分類されます。ここの苦鉄質片岩には曹長石(*)の斑晶が入っており、「”てんもん”苦鉄質片岩」といわれる特徴的な岩石です。「てんもん」というと「天文」の漢字が頭に浮かびますが、この場合は「点紋」で細かい斑点が一面に見られるからです。この「点紋苦鉄質片岩」が今回で一番のポイントとなる岩石でした。三波川帯は原岩としてはジュラ紀の砂岩・泥岩・チャート、また海底火山の凝灰岩などであり、変成作用が行われたのは白亜紀後期とのことです。
 いよいよ和歌山城に入城です。南側の岡口門から入りました。この門の石垣は砂岩で築かれています。これは「和泉砂岩」と呼ばれ、中央構造線の北側に分布する和泉層群の岩石です。和歌山城というと全国的にも珍しい結晶片岩の石垣が目につきますが、全体的にはこの砂岩による石垣が最も多いのです。これは加太の友ヶ島で採石されたことが分かっており、今でも石切場の跡が残っています。和泉砂岩は田辺層群白浜累層の砂岩に比べると淘汰が悪くて礫が含まれ、陸に近いところで堆積したようです。松の丸の高石垣では砂岩の石垣の両端が熊野酸性岩類である花崗斑岩(流紋岩の一種)により積まれている様子を観察しました。砂岩は表面の風化が進んでいますが、やはり火成岩は硬くてしっかり残っていました。
 お城の北側に進むと、西の丸庭園沿いには結晶片岩の石垣が続いています。中屋先生に岩石名を教えていただくと、苦鉄質片岩である、いわゆる緑泥片岩(青石)以外にも砂質片岩や泥質片岩、珪質片岩の一種の赤鉄鉱片岩などがあり、ごく一部には石灰質片岩も見られるそうです。また、苦鉄質片岩にも点紋のない岩石があって、岡公園や虎伏山(城が築かれている丘陵)から採石された岩石だけではないということです。点紋帯は和歌山市の北側、無点紋帯は秋葉山より南側に分布しており、和歌山城石垣の結晶片岩が雑賀崎をはじめ、さらに南からも運ばれてきたことがそれらの岩石から分かります。
 昼食後は裏坂といわれる北からの登城口を登って天守に向かいました。ここの石垣も苦鉄質片岩で積まれています。足下の石段をよく見ると人々の歩みに磨かれて点紋がはっきり見えるものがあり、岩石形成時からの長い歴史が想われました。南からの表坂と合わせて谷が入り込んでおり、ここに地下から水が上昇してくるとのことで、裏坂途中に古い井戸がありました。この湧水は虎伏山東側の断層によるもので、虎伏山自体が断層に沿って西側からせり上がって形成されており、南方の秋葉山を経て和歌浦方面に向かって弧状に続く丘陵が断層を示しています。
 天守に登り、中屋先生から地形と地質の関係を詳しく教えていただきました。東方には飯盛山が見え、そこから続く飯盛向斜がここに至っていること、北方は和泉山脈がそびえ、中央構造線によるダイナミックな(私たちにとっては災害となる)動き、西方は紀ノ川の河口が奈良時代に開かれたことや砂の丸をはじめとして浜堤堆積物とそこからもたらされた風成堆積物が吹上地区であること、南方は先述のように断層が走り、盛り上がった地形とともに低地には和歌川(かつての紀ノ川下流部)が流れている様子が一望できました。また、和歌山平野の群発地震や中央構造線に予想される大地震のメカニズムも学びました。
 表坂より下って城内の駐車場に到り、次に片男波海岸に向かいました。玉津島神社に参拝後、付近の地質を観察しました。この辺りも結晶片岩が分布していますが、もう点紋が見られない無点紋帯に入っています。ここには主に泥質片岩の一種である石墨片岩が分布し、石墨を主とする黒い層と石英を主とする白い層が縞状を呈しています。その境目が滑りやすいため、細かな微褶曲(ちりめん褶曲といわれる)が発達し、とてもきれいな断面です。石墨は風化して軟らかくなっており、指で触るとボロボロと崩れてきました。結晶片岩といっても、南の方は変成度が低いとのことです。塩竃神社から妹背山への美しい風景が地質構造からもたらされたものであることを実感しながら、観察を終えました。(文責TW氏)

*紀伊山地の三波川変成帯はほぼ四国のものと連続し、三波川結晶片岩および御荷鉾緑色岩からなり、主に紀ノ川南西側に分布する。紀伊山地中央部では秩父帯古生層がその南側の中生層に衝上した衝上断層を形成している。

*曹長石(そうちょうせき、albite、アルバイト)は、鉱物(ケイ酸塩鉱物)の一種。長石グループの鉱物で、ナトリウムに富む斜長石。化学組成は NaAlSi3O8 で、アノーサイト(灰長石)(CaAl2Si2O8)と固溶体をつくる。アノーサイトのモル分率により0-10%を曹長石,10-30%を灰曹長石(oligoclase),30-50%を 中性長石(andesine) ,50-70%を 曹灰長石(labradorite),70-90%を亜灰長石(bytownite),90-100%を灰長石と呼ぶが,区分は厳密なものではない。 火成岩や変成岩に普通に含まれる造岩鉱物。

集合写真@和歌山城天守閣




1.背斜ライン(ピンクの線)

2.集合時間前には早くも全員集合

3.早速、岡公園までウォーク♪
岡公園は和歌山城築城の時の石垣用の石切り場でした。今もこの付近には石を切り出す時にできる歯形のような跡である「矢穴(やあな)」が見られます。石の材質は結晶片岩(緑色片岩)で「紀州の青石」と呼ばれています。ここで切り出された石は、天守閣や本丸周辺の石垣に使用されました。

4.崩れやすくなっている結晶片岩

5.江戸時代の砕石現場

6.極暑も忘れて・・熱心に

7.斜め横から見ると まるで整ったサイズの薪を積んでいるように見える

8.アーチ状に積もった様子が分かります。石英片岩・珪質片岩の一種

9.どこにでもあるような岩の塊なんですが・・・♪

10.岡公園の頂上には諸々の石碑が建立されています

11.圧縮時にたおやかなウエーブが出来ている(ジュラ紀)

12.曹長石の斑晶がはいっている苦鉄質片岩(マグネシウムや鉄を含む)

13.これが点紋苦鉄質(塩基性=曹長石)片 お山のてっぺんにあります

14.これが点紋苦鉄質(塩基性=曹長石)片岩 砕石された様子が伺える

15.岡口門 内側から外側を見ています (三年坂近く)

16.和歌山城は天正13(1585)年に秀吉の命で弟の羽柴秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代としておきましたが、この時は南東部の岡口門を正門である大手門としました。広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていたのです。和歌山城の東側の地域は中世は雑賀庄(さいかのしょう)の岡と呼ばれていたのでこの名がつきました。慶長5(1600)年、浅野幸長が城主となります。浅野時代に大手を一の橋の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。元和(げんな)5(1619)年に徳川頼宣(よりのぶ)が入国する際、浅野家が提出した引き継ぎ目録に、門の一階部分に「畳三帖有」とあり、今の形と違います。元和(げんな)7年に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。
徳川時代、城の内部へ入る門で二階建ての櫓門(やぐらもん)形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。門の二階部分は北側に蔵が、南側には二階建ての櫓が続いていましたが、現在は取り払われ、切妻のような形になっています。岡口門は空襲でも焼けずにのこった旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀と共に昭和32(1957)年に重要文化財に指定されました。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間(さま)が開けられています。

17.上下の真ん中あたりで作られた時代が違うらしい

18.綺麗なカーブですが、積んでから角の両周囲を削るらしい 熊野花崗斑岩の算木積み

19.紀州の青石の野づら積み 結晶片岩で主に豊臣・桑山期

20.和歌山城の石垣は、時代によって石材や積み方の技法が違います。和歌山城は天正13(1585)年に羽柴秀吉の命で弟の秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましが、豊臣秀長家が断絶した後、大名化した桑山氏が和歌山城を増築しました。その範囲は虎伏(とらふす)山の山嶺(さんれい)部分と岡口方面くらいであったと思われます。この時代は岡公園や和歌浦等で採れる緑色片岩(紀州青石)を中心とした結晶片岩を利用し、加工せずに自然石のまま積む「野面積み(のづら)」の石垣です。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(あさのゆきなが)が城主となり城の大規模な改修を行いました。砂の丸、南の丸、二の丸西側四分の一ほどを除き、和歌山城内郭は浅野幸長時代に基本的に整備されたと考えて良いでしょう。友ヶ島等に石切場を開発して、石材は結晶片岩から砂岩(和泉砂岩)に移行しました。技法は石を加工して「接ぎ」合わせて積む「打込みハギ」となりました。この時代の、特徴は、刻印のある石材が多く見られることです。元和(げんな)5(1619)年徳川頼宣(よりのぶ)が入国し、和歌山城をさらに増築・拡張しました。徳川期も当初は砂岩を用いた「打込みハギ」の石垣ですが、その後、精密に加工して積んだ「切込みハギ」の石垣となり、熊野の花崗斑岩も用いるようになりました。

21.これは和泉砂岩(中生代白亜紀後期)の石垣 

22.石にIDが刻まれています (昔は石を運ぶのは大変だったでしょうね)

23.青石の石畳 なかなか趣がありますね

24.防空壕があった場所のようです

25.銀明水 
この井戸は「銀明水」といわれ天守台地北方丘腹の「金明水」と共に日常用水ならびに籠城の非常用水であった。城内にはこの他に四十余ヶ所あります。

26.虎伏山の湧水の説明

27.虎伏山から和歌浦にかけての背斜構造の説明

28.さて、いいよ天守閣へ

29.天守閣の全景

30.三年坂と岡公園の方向

31.紀ノ川と右端に元住金製鉄所

32.東側を望む・左真ん中に紀ノ川

33.南側玉津島神社を望む・右が雑賀崎方面

34.左に見えるのが和泉山脈

35.32に同じ

36.和歌山城の模型 手前方向が北

37.天守閣の床で講義 和歌山平野が見渡せる絶好の場所にお城がありますね

38.奈良時代あたりには紀ノ川は南向きに流路があり、離岸流により煙樹ヶ浜のような砂浜が
形成されいた。右端の図は縄文時代 ほとんどが海で、和歌浦付近は島だった

39.和歌の神様を祀る 玉津島神社に来ました 先ずはご参拝

40.根上がり松のサンプル 巨大です。

41. 和歌の浦 万葉歌碑
神亀(じんき)元年(724)甲子(かふし)冬十月五日、紀伊国に幸(いでま)しし時に、山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の作る歌一首 并(ならび)に短歌

やすみしし わご大王(おはきみ)の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ
背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騒き
潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然(しか)ぞ貴き 玉津島山
   反歌二首
沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻 潮干(しほひ)満ち い隠りゆかば 思ほえむかも
わかの浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る

和歌浦にある船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山は、元小島で、当時それらは皆、玉津島山と呼ばれていました。現在は、そのひとつ、妹背山だけが元通りの小島のまま残っています。

42.鏡山
鏡山は塩竈神社の背後の山で、その岩肌は荒れた木理(もくり)のような薄墨色を呈し、香木「伽羅」に似ていることから「伽羅岩(きゃらいわ)」と呼ばれる。
江戸時代の本草学者貝原益軒は「諸州めぐり」で「和歌の浦の石は皆木理有りて甚(はなは)だ美也。他州にては未だ見ざる所なり」と感嘆している。
塩竃神社に向かつて右側の岩の上には、干潟を望むかのように山部赤人(やまべのあかひと)の歌碑「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」が建っている。
南側の階段を登ると、鏡山の山頂から和歌の浦が一望できる。

43.青石が褶曲されている様子 伽羅岩(きゃらいわ)ですね

44.伽羅岩(きゃらいわ)に神社名

45.頁岩のような感じがしないでもない伽羅岩(きゃらいわ)です

46.伽羅岩(きゃらいわ)のひとつの様相

47.通常は安産の神様 元は製塩の関係?中辺路町にある塩竈神社は由来が違うようである

48.盬竃神社(しおがまじんじゃ)の洞窟

49.盬竃神社洞窟の伽羅岩(きゃらいわ)の様相

50.盬竃神社(しおがまじんじゃ)
日本遺産 絶景の宝庫 和歌浦
玉津島山の一つ鏡山のふもと、波で削られた洞窟に、潮の満ち干や塩作りから安産・子授けを司る塩槌翁(しおつちのおじ)がまつられている。かつて紀ノ川上流の丹生都比売神社から、浜降り神事で渡った神輿がおかれたため、輿の窟(こしのいわや)とよばれた。
加羅岩(きゃらいわ)とよばれる奇岩の岩山に波が打ち寄せる様は、和歌浦十景のひとつとされた。

51.山部赤人の有名な歌

52.硬い岩とは思えませんが、褶曲した伽羅岩(きゃらいわ)の様相です

53.妹背山全景 一番南にある
妹背山は、周囲250m程の小島で、西側に砂岩製高欄(こうらん)付きの三断橋が架けられている。この橋は、和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651)頃までに建設された。中国の景勝地である 杭州西湖の六橋(りくきょう)の面影があるといわれ、独特の意匠·構造を持つ。欄干、敷石、橋桁、橋脚は何度か補修されているが、橋の原形は壊れることなく今日まで継承されている。
正面右側の「経王堂(きょうおうどう)と呼ばれる小堂の中には、梵字で書かれた題目碑(だいもくひ)がある。南側の磯辺の道をたどると東端の水辺に観海閣が建っており、西の方向へ石段を登ると多宝塔の前に出る。

54.干潟の伽羅岩(きゃらいわ)の様相

55.伽羅岩(きゃらいわ)の様相

56.伽羅岩(きゃらいわ)の様相

57.観海閣
観海閣は、妹背山の東端に位置し、水辺に張り出すように建てられている。
三断橋と同じく慶安(けいあん)4年(1651)頃までに紀州藩初代藩主徳川頼宣により建造された。四季を通じて、遙かな干潟の水面から、対岸の紀三井寺や名草山の山並みへと続く絶妙な山水の景色を楽しむことができる水閣として、参詣人や庶民にも開放されていた。
元は木造瓦葺きで、台風、高波の被害により再建と改修が繰り返され、昭和36年(1961)の第二室戸台風で倒壊したため、現在の建物は、鉄筋コンクリート造で再建されている。

58.これも伽羅岩(きゃらいわ)の様相

59.干潟の伽羅岩(きゃらいわ)の様相

60.海禅院多宝塔(かいぜんいんたほうとう)
玉津島の6つの岩山の先頭の妹背山には、紀州藩初代藩主·徳川頼宣の母養珠院が、德川家康の33回忌の供養のため、慶安2年(1619)に経石を埋納した。明暦(めいれき)元年( 1655)、頼宣は母をしのんでその上に多宝塔を建て、また民衆が自由に干潟の景色を楽しむことができるように、三断橋(さんだんきょう)と観海閣を設けて、妹背山を整備した。

61.海禅院多宝塔(かいぜんいんたほうとう)

62.伽羅岩を切断するように走る脈が・・

63.芦辺屋と朝日屋跡地
紀州藩初代藩主徳川頼宣は、慶安年間(1648 ~ 1651)に、後に生母養珠院(ようじゅいん・お万の方)を祀ることになる妹背山を整備するとともに、鏡山の東麓に「芦辺屋」と「朝日屋」という茶屋を造らせた。
このあたりから紀三井寺への渡舟(わたしぶね)があり、多くの人々が訪れている。
現在、天保4年(1833)に紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)の命により建立されたとされる松尾芭蕉の句碑があり、「行春(ゆくはる)を わかの浦にて 追付(おいつき)たり」と読める。明治時代には、「芦辺屋」という料理旅館が営まれ、多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が宿泊した。南方熊楠は、ロンドンでの出会いを通じて親交のあった孫文と明治34年(1901)にこの地で旧交を温めている。

64.名勝 和歌の浦
和歌の浦は、和歌川河口付近に展開する干潟・砂嘴・島・丘陵地などの自然景観のなかに玉津島神社、塩竃神社、天満宮、東照宮など神社仏閣が点在する海の名所で、万葉集に詠われた良好な風致景観を今日に伝えている。
神亀(じんき)元年(724) 10月、聖武天皇は和歌の浦に行幸いその景観に深く感動し、「弱浜(わかはま)」の名を改めて「明光浦(あかのうら)」とし、春・秋に官人を派遣し、玉津島の神、明光浦の霊を祀った。
その時同行した山部赤人(やまべのあかひと)が詠んだ「若の浦に 潮満ち来れば潟を無み 葦辺をさして鶴鳴き渡る」の名歌に端を発して和歌の浦は、多くの貴族にとって憧れの地となり、和歌の歌枕として広く知られるようになった。
近世においては和歌山城主浅野氏や徳川氏により整備され、名所として保護された。多くの人々が、魅力溢れる美しい風景に惹かれて和歌の浦を訪れ、日本を代表する景勝地として知られるようになった。奠供山(てんぐさん)、鏡山の頂から望むと、紀三井寺を抱く名草山を背景として、石造のアーチ型の不老橋を目の前にし、三断橋の先に多宝塔が建つ妹背山があり、片男波海岸の松原へと続く広大な干潟の風景が展開している。
現在、妹背山(多宝塔を除く)、芦辺屋、朝日屋跡地、鏡山、奠供山(てんぐさん)、片男波は都市公園として和歌山県による整備と活用が図られ、平成22年8月には、玉津島神社、塩竃神社、多宝塔、不老橋、海岸、干潟を含め名勝和歌の浦として国に文化財指定され、保護が図られている。

65.和歌山市出身の実業家・垂井清右衛門(1860~1944)の「うららかや 蘆辺に 鶴の高歩み」という句で、「追春庵  逸水」という雅号が刻まれている。昭和9年(1934)に建立されたもので、句碑の位置や「追春庵」という雅号からもわかるように、「行春を」の芭蕉の句を意識している。

66.江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉(1644~1694)の「行春を和歌の浦にて追いつきたり」という俳句である。芭蕉が貞享4年(1687)~貞享5年(1688)にかけて近畿地方を旅した際の紀行文「笈の小文」に掲載されており、和歌の浦には、貞享5年の春に訪れた。
江戸時代後期の天保4年(1833)に、それを顕彰してこの句碑が建てられた。

67.奈良時代の地形図

68.歌川広重が描いた和歌浦 鶴がいます。 上下の真ん中左の山が名草山 紀三井寺が見えます。


2018.08.25 22:18 | 固定リンク | 研究会活動履歴

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