田ジ研自主研修 日高郷土学参加(湯浅広川町歩き)
2022.12.20
2022 1220 日高郷土学(湯浅・広川まち歩き)ツアーに参加いたしました。
テーマは:
「ひだか郷土学」(第27回)~住み続けたくなる郷土の魅力を探ろう~
ーー湯浅・広川ぶらりまち歩きーー
この二つの町は珍しい隣り合わせの日本遺産ストーリーで有名です。
湯浅町は「最初の一滴(醤油醸造発祥の地)」、広川町は「百世の安堵(津波と復興の記憶が生きる防災遺産」。
参加者数12名(田辺ジオ研より9名、御坊日高より3名)
歩程 湯浅美味いもん蔵に集合⇒旧岡正⇒角長職人蔵⇒旧栖原家⇒深専寺⇒立石茶屋
⇒養源寺⇒食事休憩⇒稲むらの火の館⇒東濱口公園
⇒耐久社⇒広村堤防⇒大仙掘⇒湯浅美味いもん蔵で解散
ガイド 森 勲さん、坂井竹男さん 有難うございました
歩数 一万余歩
晴天でしたが、風が冷たい一日でした。
感想:
今回、湯浅町と広川町の探索ですが、隣り合っていたとは知りませんでした。湯浅町は地元で盛んだった醤油の醸造の町、広川町は醤油が基本ですが、海運業をベースに関東に雄飛していった町という印象を受けました。以下 ネットより拝借。
湯浅町和歌山県唯一の重要伝統的建造物群保存地区、通称「伝建地区」には、近世から近代にかけて建築された醸造業に関わる町家や土蔵が建ち並び、醤油や金山寺味噌の醸造で栄えた昔ながらの町並みが残ります。
鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程で生まれたと言われる醤油は、紀州藩の手厚い保護を受けて藩外販売網が拡張。文化年間(1804-1818)には92軒もの醤油屋が営業していたと言われるほど湯浅の代表的な産業として栄えました。明治維新後、藩の保護が解かれたことで醤油醸造家は大幅に減少しましたが、近代化にともなう道路や鉄道、施設の整備が主に旧市街地の周辺で進められたため、近世の形態を受け継ぐ町並みは今も往時のまま残されています。
おすすめのルートは、JR湯浅駅から熊野古道にあたる道町通りを経て、立石道標、深専寺の大地震津波心得の碑を巡りながら鍛冶町通りを北上するルートです。通りを歩くと見過ごしそうな細い路地が家々の間に通っているのがわかり、いちいち覗いてみたくなるほど。こうした小さな路地は小路(しょうじ)または小路小路(しょうじこうじ)と呼ばれ、町の人々の暮らしに欠かせないものでした。
メインストリートとなる北町通りには、天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗「角長」や、昔ながらの製法で金山寺味噌を手仕込みしている「太田久助吟製」をはじめ、白壁の土蔵や風情ある町家が並び、レトロな風情に心が躍ります。 少し歩くと気づくのは、道中あちこちに飾られた詩歌や古民具。これらは町並み全体を資料館に見立てた「せいろミュージアム」。町にゆかりのある詩歌や古民具をせいろを用いて展示され、町並みを散策しながら歴史と伝統を楽しませてくれます。
歴史の面影を随所に感じながら歩くことができます。
また、角長の店舗向かいには、慶応2年に建てられた醸造蔵内で昔の醤油醸造に使用された道具を展示する角長職人蔵や、醤油造りのジオラマなどを展示する角長醤油資料館があり、醤油造りについてたっぷりと学ぶことができます。
さらに角長の北側には、醤油の原材料や商品が積み下ろされた内港、大仙堀があります。昔は湯浅の醤油がここから海を渡り全国に運ばれて行きました。今も残る石積みの堀と、堀に沿って建ち並ぶ醤油蔵の数々が醸造の歴史を今に伝えます。
町家それぞれの建築も興味深く、厨子二階と呼ばれる低い2階建て建築や本瓦葺、幕板や虫籠窓、格子といった時代時代の建築様式が盛り込まれています。その意匠の美しさや職人の高い技術には惚れ惚れとすることうけあいです。
ふと足を止めると、老舗醸造家から漂う醤油の香りが鼻をくすぐり、醤油造りの歴史と伝統が形や香り、味わいとなって今もまちとここに暮らす人の中に息づいているのを感じます。そんな醸造の香りが漂う伝建地区で、歴史と文化に触れながら、ゆっくりとまち歩きが楽しめます。
広川の町は室町時代に紀伊国の守護にあたった畠山氏が1401年(応永8年)に広城を築いたのがはじまりで、畠山氏は浜を埋め立てて屋敷をつくり海岸沿いに波除けの石垣をつくるなどして整備しました。
その後、畠山氏が没落し、代わって広浦を支配したのは日高郡小松原(御坊市)の城主であった湯川氏で、街路を設けるなど発展の礎を築きました。
このころから海運業が盛んになり漁民は諸国沿岸に出漁し、江戸の発展とともに事業を拡大していきました。
広川の人々は銚子で醤油醸造を営むなど関東で商売をしながらもこの町に居宅を置いていました。このことが広川の伝統的な町並みの形成に大きな影響を与えました。
・広川の町並み
・東濱口公園と濱口家住宅
・旧戸田家住宅
・稲むらの火の館
・広村堤防
国指定重要文化財の濱口家住宅や登録有形文化財の泉家住宅、旧戸田家住宅をはじめ、歴史的な建造物が優れた景観を見せているのが、広川町広地区の町並みです。室町時代に広城を築いた畠山氏が浜を埋め立てて屋敷をつくり、海岸沿いに波除けの石垣を整備したのが町並み形成の始まりでした。その後、漁村だった村に湯川氏が街路を設けて発展の礎を築き、海運業が盛んになります。漁民は諸国沿岸に出漁を開始し、江戸の発展とともに事業を拡大。銚子での醤油醸造など関東で商売をしながらも広の町に居宅を置いたことが、広の伝統的な町並みを形成する大きな要素となりました。重厚な本瓦の屋根が連なり、漆喰や船板の外壁、窓を飾る格子の意匠が町を彩っています。
Jinsen-ji Temple
日本遺産構成文化財
Cultural Properties
深専寺は、奈良時代 行基により開かれた海雲院を前身に、寛正3年(1462) に明秀上人が再興した西山浄土宗の寺院である。 寛文3年(1663) に建立された本堂をはじめ近世に整備された堂舎が広がる境内は、 醤油醸造家たちも行き来した熊野街道沿いにあり、聖護
院門跡らの熊野入峰の際には宿舎としても利用された。門前に立つ 「大地震津波心得の記碑」には、当地の醤油醸造家らの名が寄進者として刻まれている。
国指定史跡 広村堤防
昭和十三年十二月十四日指定
広川町は古来より幾度となく津波に見舞われてきた。特に宝永四年(一七〇七) 安政元年(一八五四)の大津波は、広地区が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした。
特に安政元年の津波を目のあたりにした濱口梧陵翁は、濱口吉右衛門氏と詰り、中世畠山氏の築いた石堤の後方に高さ五m、根幅二〇m、天幅二m、延長六〇〇mという大防波堤を安政二年(一八五五)二月に着工し、その間三年十ヶ月・工費銀九四貫三四四匁(三五三・七九㎏)の私財を投じ、延人員五六、七三六人を要し安政五年(一八五八)十二月に完成をみた。この堤防工事で、津波により失職した人々に仕事を与えることができ大いに役立ったのである。梧陵翁の業績に感謝し「ふるさとを大切にし、災害の恐ろしさを知り、おたがいに助け合い」を目的に全国的にもまれな「津浪祭」を実施している。
昭和六十一年三月
広川町・広川町教育委員会
大仙堀
平安時代の頃から海運の要衝であった湯浅は、湯浅広港を擁する港町として栄えた。
大仙堀は湯浅湾に注ぐ山田川(北川)河口に設けられた内港で築造年代は江戸時代と考えられる。「しょうゆ堀」とも呼ばれ、醤油やその原材料の積み下ろして賑わいをみせた。
醤油醸造蔵から直接小船に積み込まれた醤油は、沖に停泊している大型船に積み替えられ、樽の中で海路を揺られながら紀州藩を後に各地へと出荷されていった。
大正四年、湯浅に有田鉄道が開通すると港湾の積荷を鉄道で運ぶようになり、貨物専用の「海岸駅」の線路が大仙堀の埠頭の端まで架けられた。
昭和十九年に線路が撤去されてのち東側の船泊場が埋めたてられ、昭和三十~四十年代には鉄道跡が道路となり、浜も埋め立てられて現在に至っている。
湯浅広港周辺は時代とともにその姿を変えてきたが、今も石積みの護岸に醤油蔵が建ち並ぶ大仙堀の景観は、港町に栄えた醤油醸造文化の歴史を鮮明に伝えている。
テーマは:
「ひだか郷土学」(第27回)~住み続けたくなる郷土の魅力を探ろう~
ーー湯浅・広川ぶらりまち歩きーー
この二つの町は珍しい隣り合わせの日本遺産ストーリーで有名です。
湯浅町は「最初の一滴(醤油醸造発祥の地)」、広川町は「百世の安堵(津波と復興の記憶が生きる防災遺産」。
参加者数12名(田辺ジオ研より9名、御坊日高より3名)
歩程 湯浅美味いもん蔵に集合⇒旧岡正⇒角長職人蔵⇒旧栖原家⇒深専寺⇒立石茶屋
⇒養源寺⇒食事休憩⇒稲むらの火の館⇒東濱口公園
⇒耐久社⇒広村堤防⇒大仙掘⇒湯浅美味いもん蔵で解散
ガイド 森 勲さん、坂井竹男さん 有難うございました
歩数 一万余歩
晴天でしたが、風が冷たい一日でした。
感想:
今回、湯浅町と広川町の探索ですが、隣り合っていたとは知りませんでした。湯浅町は地元で盛んだった醤油の醸造の町、広川町は醤油が基本ですが、海運業をベースに関東に雄飛していった町という印象を受けました。以下 ネットより拝借。
湯浅町和歌山県唯一の重要伝統的建造物群保存地区、通称「伝建地区」には、近世から近代にかけて建築された醸造業に関わる町家や土蔵が建ち並び、醤油や金山寺味噌の醸造で栄えた昔ながらの町並みが残ります。
鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程で生まれたと言われる醤油は、紀州藩の手厚い保護を受けて藩外販売網が拡張。文化年間(1804-1818)には92軒もの醤油屋が営業していたと言われるほど湯浅の代表的な産業として栄えました。明治維新後、藩の保護が解かれたことで醤油醸造家は大幅に減少しましたが、近代化にともなう道路や鉄道、施設の整備が主に旧市街地の周辺で進められたため、近世の形態を受け継ぐ町並みは今も往時のまま残されています。
おすすめのルートは、JR湯浅駅から熊野古道にあたる道町通りを経て、立石道標、深専寺の大地震津波心得の碑を巡りながら鍛冶町通りを北上するルートです。通りを歩くと見過ごしそうな細い路地が家々の間に通っているのがわかり、いちいち覗いてみたくなるほど。こうした小さな路地は小路(しょうじ)または小路小路(しょうじこうじ)と呼ばれ、町の人々の暮らしに欠かせないものでした。
メインストリートとなる北町通りには、天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗「角長」や、昔ながらの製法で金山寺味噌を手仕込みしている「太田久助吟製」をはじめ、白壁の土蔵や風情ある町家が並び、レトロな風情に心が躍ります。 少し歩くと気づくのは、道中あちこちに飾られた詩歌や古民具。これらは町並み全体を資料館に見立てた「せいろミュージアム」。町にゆかりのある詩歌や古民具をせいろを用いて展示され、町並みを散策しながら歴史と伝統を楽しませてくれます。
歴史の面影を随所に感じながら歩くことができます。
また、角長の店舗向かいには、慶応2年に建てられた醸造蔵内で昔の醤油醸造に使用された道具を展示する角長職人蔵や、醤油造りのジオラマなどを展示する角長醤油資料館があり、醤油造りについてたっぷりと学ぶことができます。
さらに角長の北側には、醤油の原材料や商品が積み下ろされた内港、大仙堀があります。昔は湯浅の醤油がここから海を渡り全国に運ばれて行きました。今も残る石積みの堀と、堀に沿って建ち並ぶ醤油蔵の数々が醸造の歴史を今に伝えます。
町家それぞれの建築も興味深く、厨子二階と呼ばれる低い2階建て建築や本瓦葺、幕板や虫籠窓、格子といった時代時代の建築様式が盛り込まれています。その意匠の美しさや職人の高い技術には惚れ惚れとすることうけあいです。
ふと足を止めると、老舗醸造家から漂う醤油の香りが鼻をくすぐり、醤油造りの歴史と伝統が形や香り、味わいとなって今もまちとここに暮らす人の中に息づいているのを感じます。そんな醸造の香りが漂う伝建地区で、歴史と文化に触れながら、ゆっくりとまち歩きが楽しめます。
広川の町は室町時代に紀伊国の守護にあたった畠山氏が1401年(応永8年)に広城を築いたのがはじまりで、畠山氏は浜を埋め立てて屋敷をつくり海岸沿いに波除けの石垣をつくるなどして整備しました。
その後、畠山氏が没落し、代わって広浦を支配したのは日高郡小松原(御坊市)の城主であった湯川氏で、街路を設けるなど発展の礎を築きました。
このころから海運業が盛んになり漁民は諸国沿岸に出漁し、江戸の発展とともに事業を拡大していきました。
広川の人々は銚子で醤油醸造を営むなど関東で商売をしながらもこの町に居宅を置いていました。このことが広川の伝統的な町並みの形成に大きな影響を与えました。
・広川の町並み
・東濱口公園と濱口家住宅
・旧戸田家住宅
・稲むらの火の館
・広村堤防
国指定重要文化財の濱口家住宅や登録有形文化財の泉家住宅、旧戸田家住宅をはじめ、歴史的な建造物が優れた景観を見せているのが、広川町広地区の町並みです。室町時代に広城を築いた畠山氏が浜を埋め立てて屋敷をつくり、海岸沿いに波除けの石垣を整備したのが町並み形成の始まりでした。その後、漁村だった村に湯川氏が街路を設けて発展の礎を築き、海運業が盛んになります。漁民は諸国沿岸に出漁を開始し、江戸の発展とともに事業を拡大。銚子での醤油醸造など関東で商売をしながらも広の町に居宅を置いたことが、広の伝統的な町並みを形成する大きな要素となりました。重厚な本瓦の屋根が連なり、漆喰や船板の外壁、窓を飾る格子の意匠が町を彩っています。
Jinsen-ji Temple
日本遺産構成文化財
Cultural Properties
深専寺は、奈良時代 行基により開かれた海雲院を前身に、寛正3年(1462) に明秀上人が再興した西山浄土宗の寺院である。 寛文3年(1663) に建立された本堂をはじめ近世に整備された堂舎が広がる境内は、 醤油醸造家たちも行き来した熊野街道沿いにあり、聖護
院門跡らの熊野入峰の際には宿舎としても利用された。門前に立つ 「大地震津波心得の記碑」には、当地の醤油醸造家らの名が寄進者として刻まれている。
国指定史跡 広村堤防
昭和十三年十二月十四日指定
広川町は古来より幾度となく津波に見舞われてきた。特に宝永四年(一七〇七) 安政元年(一八五四)の大津波は、広地区が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした。
特に安政元年の津波を目のあたりにした濱口梧陵翁は、濱口吉右衛門氏と詰り、中世畠山氏の築いた石堤の後方に高さ五m、根幅二〇m、天幅二m、延長六〇〇mという大防波堤を安政二年(一八五五)二月に着工し、その間三年十ヶ月・工費銀九四貫三四四匁(三五三・七九㎏)の私財を投じ、延人員五六、七三六人を要し安政五年(一八五八)十二月に完成をみた。この堤防工事で、津波により失職した人々に仕事を与えることができ大いに役立ったのである。梧陵翁の業績に感謝し「ふるさとを大切にし、災害の恐ろしさを知り、おたがいに助け合い」を目的に全国的にもまれな「津浪祭」を実施している。
昭和六十一年三月
広川町・広川町教育委員会
大仙堀
平安時代の頃から海運の要衝であった湯浅は、湯浅広港を擁する港町として栄えた。
大仙堀は湯浅湾に注ぐ山田川(北川)河口に設けられた内港で築造年代は江戸時代と考えられる。「しょうゆ堀」とも呼ばれ、醤油やその原材料の積み下ろして賑わいをみせた。
醤油醸造蔵から直接小船に積み込まれた醤油は、沖に停泊している大型船に積み替えられ、樽の中で海路を揺られながら紀州藩を後に各地へと出荷されていった。
大正四年、湯浅に有田鉄道が開通すると港湾の積荷を鉄道で運ぶようになり、貨物専用の「海岸駅」の線路が大仙堀の埠頭の端まで架けられた。
昭和十九年に線路が撤去されてのち東側の船泊場が埋めたてられ、昭和三十~四十年代には鉄道跡が道路となり、浜も埋め立てられて現在に至っている。
湯浅広港周辺は時代とともにその姿を変えてきたが、今も石積みの護岸に醤油蔵が建ち並ぶ大仙堀の景観は、港町に栄えた醤油醸造文化の歴史を鮮明に伝えている。