第30回 上富田町救馬渓観音と近辺・鉱山跡 巡検
2020.07.26
第30回 上富田町救馬渓観音と近辺・鉱山跡 巡検

7月26日(日曜)第30回巡検より

断続的に非常に激しい雨に見舞われた為

今回は見学場所をかなり端折り

予定より1時間早く解散(集合時は小雨)

訪問場所は隣町の上富田町

龍松山城跡(山本主善守一族の出城)~2カ所の鉱山跡

~富田川川替え跡~救馬渓観音

今回の特記は 巡検内容よりも

ご丁寧に2台の車がパンク(各々×1本)

みなさまくれぐれも山道を通る時は

スペアタイヤのご準備を

参加メンバーの中には

3日前に 予期せぬビバーグと 

この日のタイヤパンクのおまけ付の方も

(笑い話になって良かった)

そうです 物は考えようですね

次回は 近場の山でも

充分備えをして出かけましょう

強烈な雨の中 無事に戻れたことに感謝です

最後に鮎川近辺の廃鉱山のリストをつけました。このあたりに、鉱山があったということは枯木灘弧状岩脈の延長がこのあたりまであるということが考えられます。

<<<<<参考>>>>>
第30回田辺ジオパーク研究会巡検上富田町コース案
9:00
救馬渓観音第一駐車場集合 乗合せ(軽自動車)
9:15
竜松山 山本氏代々の城跡の場所(室町幕府の奉公衆築城は 1532~1555)
http://www.town.kamitonda.lg.jp/chosei/shoukai/kanko/2437.html
城の規模は「紀伊風土記」によれば、本丸東西約80m、南北約51m、堀約291m、堀幅約9m、東北に井戸があり、又、馬井戸もあったことが知られ、現在、本丸と二の丸の削地堀切、井戸跡の遺構が残っています。石垣の大部分は、明治22年(1889年)の大洪水で決壊した富田川堤防の復旧に使用しました。山本氏は富田川全域、現田辺市の大半と現日高郡の一部を支配した豪族でしたが、天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻めでこの山上に再三来攻、固守して降らず、天正14年9月(1586年)ついに和議に応じ登城、紀和の国境、真士峠藤堂高虎(まつちとうげ とうどうたかとら)の館において謀殺された。』とあります。(1585年、豊臣秀吉の侵攻に対しては、ゲリラ戦術で対抗し、戦いは3ヶ月つづき、和睦の話が出て、その交渉のために、当時の当主·山本康忠ら13人は、秀吉軍の陣営にでかけました。それが罠で、騙し討ちにあって全員殺害されたといわれています)

10:00
鉛山鉱山跡(番犬がいた)~天爽会 鮎川周辺には熱水性の鉱脈型鉱床の南海、鮎川今西(清水)高垣の各鉱山があり、主に閃亜鉛鉱、方鉛鉱、磁硫鉄鉱、黄銅鉱を産出
11:45 昼食
この鉱山は方鉛鉱や硫化鉄鉱を中心とする鉱山で、初期には金も出た
清水鉱山跡ようです。銀の含有が多いみたいです 近くの石ころをコンコンすると漂う硫黄臭とともに銀色の方鉛鉱が確認出来る。
14:00
稲葉根王子
メンバーが熊野古道の話について話す
畑山橋(潜水橋) 四万十川の潜水橋を真似ている
彦五郎堤防 メンバーが彦五郎の人柱や明治大水害の碑について話す
田中神社の森 南方熊楠のオカフジや大賀ハスを話す
救馬渓観音 ご住職の話 田辺層群と牟婁層群2カ所の不整合等
16:30 解散

1.山本一族は室町幕府の奉公衆も務め熊野を代表する将軍の直属軍 熊野八荘司うちの一族

2.龍松山は町指定の遺跡 山城遺構図(120m×80m)別名 辰巻城

3.発掘調査から見つかった出土品

4.土塁のなごりに高木の主が、城跡をまるで警備しているかのよう

5.落ちないように葉の裏側にうまく引っかけて脱皮しているね 

6.ウバユリ 嬉しくないネーミング。。。。

7.本日の龍松山説明担当 ミッシーさん 

8.忘れない間に記念写真 (この時間は まだ曇り後小雨程度だったけど・・・)

9.ヨウシュヤマゴボウの実 ヤマゴボウ科の有毒植物で、食用にはなりません

10.トイレで見つけたアオガエルさん 動きが速かったのでボケました

11.ジャリ石を踏む音を出しながら近寄っても、人間なんか眼中にないご様子 

12.!川替え跡です ここ暫くこの川床が見えず状態 やっと証拠写真が撮れました♪

13.どんなオオウナギさんが住んでいるのでしょうね

14.来ました。清水鉱山跡の坑口 大塔村誌によると約30mの横穴が掘られているらしい

15.ひっそりと咲いているこの花の名前はわかりませんが 丁度小雨時の様子の頃

16.先発登り隊が、タイヤパンクから無事に下まで戻ってきたところ

17.豪雨の為 行程を短縮して救馬渓観音さんに到着

18.過日、この滝王神社の大木が大雨で倒壊しましたが早々に片付けられていました

19.この滝王神社の正面奥に年代の違う岩が上下に出現しているんでーす♪

20.ちいさな紅葉の葉っぱ 秋には華やかな紅色に変身

21.美味しそうな椿の実

22.2番目パンクのメンバーも、終わりの会に間に合ったー 良かった!良かった!

23.鮎川周辺の廃鉱山の位置
鮎川周辺には、熱水性の鉱脈型鉱床の南海、鮎川、今西(清水)、高垣の各鉱山があり、主床に閃亜鉛鉱、方鉛鉱、磁硫鉄鉱、黄銅鉱などを産出した。現在全て廃鉱となっていて、詳細を知ることができないが、日本鉱床誌「近畿地方」(1973)、資源エネルギー庁(1979)、及び津田(1955・1962)の資料に基づいて各鉱床の特徴を述べる。

・南海鉱山は鉱区内の道路わきに四つの坑道が開削されていたが、その後の道路建設の際に坑口が石積みで塞がれたり埋没して、その位置は確認できない。鉱床の規模などは不明である。鉱石鉱物は閃亜鉛鉱、方鉛鉱のほか少量の磁硫鉄鉱、黄銅鉱がみられた。脈石鉱物は方解石を主とし、少量の石英が認められた。
・今西(清水)鉱山は約三〇メートルの坑道が開削されていた。鉱床の規模は走向延長10メートルで、稼行された鉱脈は二条であった。坑口付近で採取された試料では、黄鉄鉱、磁硫鉄鉱のほか、少量の黄銅鉱、閃亜鉛鉱などの鉱石鉱物、脈石鉱物として石英が認められている。
・高垣鉱山は旧坑道が上下二つの坑道開削されたが、下坑は坑口が埋没、上坑は約15メートル掘削された。鉱床の規模は走向延長10メートル、傾斜延長10メートルであった。鉱石鉱物は磁硫鉄鉱を主とし、わずかに黄銅鉱を伴う。
・鮎川鉱山は鉱脈が北と南にほぼ
平行して二条歴胎する。レンズ状の鉱床であった。規模は走向延長10-50メートル、傾斜延長10メートルであった。磁硫鉄鉱を主とし、少量の黄鉄鉱を含む鉱石が産出した。

2020.07.26 00:55 | 固定リンク | 研究会活動履歴

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