田ジ研自主研修 日高郷土学に参加
2021.04.11
2021.4.11 日高郷土学 三尾ウォークレポート
 ずっと気になっていたアメリカ村へのお誘いをもらって
雲一つない青空の下、松林がこれでもかと続く煙樹が浜へのドライブは、日々の忙しさから解放され、とてもハッピーな気分でした。  Cさんの説明では、煙樹が浜は遠浅ではなくて、海が急に深くなっているから、釣り糸を遠くへ飛ばさなくても釣れるらしく、結構、車も止まっていて春の海を満喫している様子でした。
集合場所には余裕をもって到着。 挨拶・コース説明後、車を置いて逢母の海岸を目指して歩くのですが、田舎なのに日本の原風景とちょっと違う建物があちらこちらにあり、カラフルな色使いも眺めながらウォーキングを楽しみました。
 堤防を降りて早めの時間に美味しいお弁当を頂いた後、何はともあれ我々はジオ研であるからまず学習! という事で、ゴジラの様な枕状溶岩、それに千歳飴の様な出来方の岩、緑色で海の底から来た岩、説明によるとみんなご先祖さまが違うとか! それじゃ岩だって、ここではインターナショナルじゃあありませんか? 海の中に何で溶岩があるのか? 何で??? と思いながらも田辺周辺の海しか知らない私にとって、和歌山の魅力大発見に今日も感謝!    
少し高台にある法善寺へ案内されて御住職さんに本堂迄招いて頂き立派な造作に感激するのと、ふる里を守る強い心が伝わってきて、真剣に生きていく姿勢を想像しました。
 竜王神社へも足を運んで、アコウ生息最北の地という鎮守の森をしばらく歩いていくと、見事な神社で、祭壇の前に「仁王さん」のようなアコウの大樹が、それは立派なものでした。 倒れていかない様にセメントで支えをして、永遠の命をつないでいるかの様でした。
目指すはいよいよアメリカ村ミュージアム
カナダ移民の父 工野義一さんの胸像とトーテムポールが近々設置される予定との事。 このミュージアムが出来て今年で3年との事。カナダへ渡って帰国された方々が三尾に家を建て、アメリカ村と呼ばれる様になった。 と聞いただけでは、ご苦労は計りかねない。 ミュージアムという資料館があり、写真があり、実際に渡航する時に使ったトランク等は、一目見て圧巻でした。この拠点こそ“百聞は一見に如かず“とは、真にこの一言。
当時カナダへ渡った工野さんの意気込みというか冒険心にエールを贈り、御家族の 厨と葛藤には心を痛める思いがします。  家と家の間の路地を歩きながら、ミュージアムの館長さんである三尾さんが色々説明して下さる中で「カナダから帰って家を建てる時、地下室という食品保存庫にする為にあちらこちらの家に、その様な所を設けてあります」と言ってくれるのですが、パッと見は全く分からなくて、坂を利用した段差のところに木戸で入り口にして、うまくこしらえてある。という地元の方ならではの説明にまたまた有難う!でした。

 帰る時は今日は来てよかった。 でも再び来る事はないかも・・・と思ったけど、一晩寝ると何故か気になる所。 又機会があれば是非もう一度訪ねてみたい所です。
 3年後には、コロナも収束から終息になって、30代の娘も知らなかったこのアメリカ村が普通に知れる様になれば、先人の苦労の上に今がある事も、少しは理解されるのではないか、と思うのは私だけでしょうか?


2021.4.12 A・M


1.10:30集合 かなり早く到着 食事ができる建物です

2.逢母の海岸は地質の教科書そのもののようですって

3.応神天皇ゆかりの地のようですが詳細はわかりません

4.この日は、ビタミンアイと💛豪華なエビフライ等手作り感満載の上品なお弁当!

5.法善寺の寄進札には他では見られない「弗」表示が👀

6.美しく手入れをされていたお寺さん

7.本尊様に合掌

8.一本作りの薬師如来立像の説明板

9.交通量の少ない海岸近くの路地歩き  手作り野菜がたくさん顔をだしている

10.根っこのパワーがすごいので下に届かないようにグルグル巻きに方向転換ですね

11.龍王神社のアコウ:アコウ(赤榕)はアジア東部の亜熱帯地方の海岸に生えるクワ科イチジク属の常緑高木です。アコウは、九州、四国、山口県、和歌山県では有田市矢櫃海岸を最北限として生息しており、他樹の上に生育し、気根や枝葉で宿主を包みこんで絞め殺してしまいます。「龍王神社のアコウ」は、根元から大きな2本の枝に分かれており、多くの気根を垂らし、まるで竜の首をも想像させる奇樹です。 

12.まるで日光東照宮ばりのお社ですね!

13.土塀には どれどれ・・枕状溶岩っぽいのが積まれているような

14.竜王神社は海側の崖から人々の航海の無事を見守ってくれているのですね

15.緑の岩と縦横無尽に蔓延る蔦が気になる気になる♪

16.約2.5㎞ウォークで辿り着いたカナダミュージアム 

17.見覚えのある懐かしい足踏みミシン 当時としてはやはりお金持ち!

18.え!? ウルトラマン太郎のパーツのよう)^o^( 日ノ御埼灯台のレンズ

19.こんな感じで活躍していたのですね

20.なるほど・・・明治元年から移民が始まったのですね。

21.34才で三尾村を出発された工野儀兵衛さん

22.頑丈なトランク! 高そう!!

23.三尾館長のご説明に神妙に耳を傾ける面々

24.なんたっていつでもどこでも美味しいものには目が離せない♪

25.平井さーん、お世話になりました。又、日高郷土学に参加させて頂きまーす

26.三尾館長が「子供のころよく登って遊んだよー」さすが軽々でした 

2021.04.11 22:26 | 固定リンク | 研究会活動履歴
第33回 三栖廃寺跡・真砂家屋敷跡周辺散策
2021.03.14
        <行程は以下の通り>
集合場所 9:00  JA三栖支所駐車場
         珠簾(みす)神社 
         左会津川河原で牟婁層群露頭
         中三栖組大庄屋真砂家屋敷跡
         三栖廃寺
         衣笠城跡 昼食
         報恩寺(善光寺)33ヶ所巡り含む
         JA三栖支所解散(15:00)


タジケン ジオ女 KKさんより早速に投稿いただきました。

震災後10年の3月14日、NHKで関連番組を見続けた1週間が過ぎ漸く春の陽射しの中に出て見た 三栖の風景は、 常緑樹の、緑の葉うらに光さんざめく豊かさの中にあった。
「アリガタイ」 三栖大庄屋 真砂家住居。798年から記録が残り 現在72代目が守られている庭を見せて頂く。 そのすごさ、山茶花の巨大古木。末枝に産毛あり 触れるといつまでも心地良し。ヤバい❗ お隣の椿には それがない、数えきれない紅のぷっくり蕾をつけ 陽光を受けて ここそこに咲き誇る10cm大の満開世界 風が、揺らす 花が、重い。 すると 熊野古道 清姫伝説のモデルとなったご先祖のお二方 美女の清姫と 頭に角を持つと修験僧に言われた玉姫が 歩き始める。栗栖川からここ三栖に空間移動された様な、庭の、草土が急に柔らかく感じられ 三つ井戸の水滴の音が聞こえる 錯覚。
やがて秀吉紀州攻めを、自らの切腹で押しとどめ 真砂一族を存続させた53代目の墓と言われる墓所へ。その名は友家、「友」が代々つく当主たちは 三栖の治水に務めた。日本が天変地異と災害に見舞われた8年後の1868年に建てられた母家を一周 北西にある薬師堂へ。お堂脇にかけられた数々の耳石、ギリシャやスペインの教会にもあるという常民の、祈り石が乾いた音をたてている。目に見えない確かさ。聴こえてくるご先祖さま達の心の豊さ。
「お薬師さまはきている」エピソードも笑いか、こぼれる面白さ。真砂屋敷から 車で5分行くと 真砂一族より以前 白鳳時代 三栖に鎮座していた三栖廃寺の跡が。 あの法隆寺式伽藍があったという柱の礎石いしと うろこ模様の瓦たちが 梅畑の剪定の音の中でのんびりとお昼寝ふう。その後一行は 衣笠城跡にのぼり 田辺湾(白浜 椿の高層ホテルこみ 天神崎をのぞむ)をほおばる。 おにぎりモグモグ ガスボンベで湯沸かし、こりゃ災害対応策じゃと談笑。
トリは報恩寺(名前忘れました) 臨済宗妙心寺派の本堂前の見事な蘇鉄(ソテツ)。これ又風格が ヤバっ(蕪村のソテツ図を連想させる)噂では関西一とか。 出迎えてくれたのは 以下数々の草花、いわひばの青々姫、ハギ紫オシベの元気さ、紫背スミレのおいでおいで揺れ、高野ボウキの綿毛ふわふわ、小葉ノミツバツツジのピンク色の上品さ、西国33ヶ所ミニミニ巡りを終えさせて頂いて眼前に開けたのは,境内の早咲きさくら満開を手前に見事に手入れされた寺の伽藍 その向こうに衣笠山(秋津 三栖 田辺市内を分ける)ドーンと さらに奥には大坊のみかん山チラリ左から龍神山、三ツ星、高尾、槇山と眺め広がり、豊かな三栖のさわやかな風が吹き上がってきた。生かして頂いて「アリガトウございます」の一日。 お世話頂いたジオ研の皆さま 楽しくて やがて楽しき 楽しくて 愉しくての春の一日」ごっつあんです☺️
読み返して誤字脱字ご免なすって。「お薬師さまは生きている」の逸話は あの山本先生が、照らして見せて下さった鎌倉時代の薬師仏は 江戸時代に盗難に会ったとか。しかし逃げる途中、 仏はどんどん重くなり 仏を売った金をとるか押し潰されそうな自分の身体を救うか、答えは簡単なこと。️ ということで再び真砂家の薬師堂にお座りになられて居らっしゃるとか。「ありがたい!」因みに案内下さった真砂家の末裔は ジオ女の間で「薬のゆうさん(ご職業)」と呼んでいましたが 代々医学に関係を持ち続けた真砂家の、DNAに納得というオチ付きでした。

1.幹回りは5~6mくらいありそうな立派なご神木

2.左会津川ですが、地元の知人は三栖川と呼んでいます。

3.河原には瓜谷層の石ころがあっちこっちに顔を出している

4.結構大きなモクズガニだったようだ

5.河原にぽつりぽつりとセイヨウカラシナの姿も

6.あ!? ナナホシ?

7.天正18年(1590年)57代忠知の時代に栗栖川から中三栖村にお引越しされたようです

8.安政大地震で最初の屋敷倒壊後、混乱の世の中で6年がかりで出来た屋敷らしい

9.モウソウダケに取り囲まれ苦しそうなカゴノキ 縁者は「助けたい!」

10.灯篭の文字を判読中 

11.サザンカの枝にはやわらかい沢山の産毛が生えている!

12.直径12cmはありそうな大輪の八重ツバキ

13.見たこともないサザンカの大木!

14.敷地内には3つの井戸がありました

15.ちょっと失礼します

16.こちらの手水鉢は音無川層群ようも見えますが・・・

17.手入れの行き届いた薬師堂

18.57代忠知さんのお墓もありました

19.次は白鳳時代創建といわれる国指定史跡の三栖廃寺へ

20.三角の心礎と周りには丸い礎石が等分に配置

21.心柱を受ける凹柱座や舎利を収める孔が穿たれているようです

22.基壇の南側前面には自然石を積んだ階段が残っていました

23.234mの衣笠山からの眺めもすこぶる絶景!

24.逆光だったけど紀伊水道をバックにパチリ!

25.今度は衣笠城跡碑の前で♪「ハイ!ウィスキー」

26.田辺市指定文化財
史跡 衣笠城跡(きぬがさじょうあと)
指定年月日 平成五年七月八日
衣笠城については、江戸時代の「紀伊続風土記」(しょくふどき)
に「文永の頃愛洲八郎源経信の居城なりといふ」と書かれている。文永年間(1264-74)は鎌倉時代中頃にあたる。別名、愛洲城。鎌倉時代中頃から 当地に勢力をもっていた愛洲氏は
南北朝時代に南朝方につき、北朝方の日高の湯川民などと 争ったが、南朝が衰亡すると、勢力を失った。応仁の乱 (1467-77)が起こるころ、当地でも中央の諸有力武将につながる群雄が抗争を繰り返し、長禄元年(1457)から翌 年、衣笠城を中心とする功防戦があったとも伝えられている。戦国特代 終わりころには、城主小牧氏が千光寺の勢力と戦い、落城したといわれている。城は上段中段下段の曲輪(くるわ)(陣地や屋數の為の平な土地) で構成され、これに上段・中段の曲輪を取り巻く帯曲輪(おびくるわ)が付けられている。各曲編の辺には、高さ1M程度の土塁が築かれ、広い中、下段の間には、大小ニ列の空堀が 設けられ、その岸にも土塁が築かれており、東方の防備は厳重である。西方にも空堀があったが、今は失われている。

田辺市教育委員会


27.今回は市観光ボランティアガイドのベテランさんから説明頂く(当会メンバー)

28.いつもと同じmyランチで 

29.ほぼ予定通りのランチタイム 景色は最高の「お・か・ず」

30.午後からは、上富田側に近い三栖の報恩寺へ 近畿で一番大きなソテツらしい

31.さあ!これから33ケ所巡りに向かいます

32.自分で自分を締め付けているネズミモチの根っことお隣のハゼノキさん

33.ふわふわの冠毛植物はコウヤボウキ

34.ここは前弧海盆堆積体田辺層群なりー

35.イワヒバがしっかりと根付いている

36.遠望の丸いお山は田辺のシンボル「高雄山」606m

37.この資料はもう一度目を通さなくては!

38.地質図では眼下の平野は沖積平野になっています。 あー今日も楽しかった♪

2021.03.14 22:18 | 固定リンク | 研究会活動履歴
田ジ研自主研修 西有田県立自然公園 巡検
2021.01.31
早速に、ジオ女史KYさんよりコメをいただきました。

ジュラ紀、シダの化石を探すべく、高田海岸へ。
ここには色んな種類の石があった。赤や緑のチャートがカラフルなれき石、石英が一直線に通った石、石のミルフィーユと言いたくなる結晶片岩、と、素人でも楽しくなる。
平らな石をみつけ、石投げで水切り競争。童心に返り数投したが、明日肩に異変がありませんように、と、こっそり祈る。
化石発見の夢は叶わなかったが、十分楽しい時間を過ごさせてもらった。
今回覚えた植物はききょうらん。宮崎の鼻に群生していると看板にあったので、いつかきっと、と、またひとつ夢ができた。

今回の自主研修は、西有田県立自然公園の高田海岸をメーンに企画いたしました。
有田市の観光課、「千田(ちだ)のしわくちゃ岩」の周囲を叩くと植物の化石がよく出てくると紹介いただいたのが、発端です。
田辺より高速利用、広川ICで降り、須原温泉・須原海岸経由で高田海岸の南端、浮石に到着。
浜に降りて、石ころ見学、面白いことにほとんどの石に石英脈が縦横無尽に入っています。
堪能したところで、次は須佐神社に参拝、少し散策して戻り、千田(ちだ)漁港へ砂浜でランチ、さあ巡検というところで、見ると和歌浦の伽羅岩に類似したものがたくさん見かけます。
赤色チャートの小粒の礫が入ったもの、大きな赤色チャートの岩が混じった岩帯等、コンプレックスそのものです。周囲の岩を叩いてみましたが、植物の化石は発見できず、再挑戦を期して水切り大会をそこそこに離れました。次はみかん海道を尾根筋を西へ走り、展望台でパチリ。南方向を俯瞰すると右端に白崎海洋公園、黒瀬川帯の黒島、鷹島と前回の雨の下見のときと違い景色はバッチリでした。次、最近できた「浜のうたせ」道の駅にてお買い物、皆さんいろいろ購入されました。このあたりは多様な地層帯が存在する場所で、この秩父帯の西端の宮崎の鼻を訪問するべく、先ず「女の浦海岸」へ、うわー ゴミだらけという喚声、何とか鼻への山道を見つけて、進軍したが、「船越」海岸で時間切れとなりました。「宮崎の鼻」は次回の楽しみととして晴天の中の巡検でした。
参考:
有田市役所HPより:
周囲を西有田自然公園に囲まれた高田浦は小さな漁村で、海岸美がすばらしく、古来歌にも詠まれています。

あゆちがた 朝こぐ舟の ほのぼのと
千田の浦辺に 浪よする見ゆ
よせかえる 千田のうらなみ 百千たび
みれどもあかめや 沖つしま山
本居大平(おおひら:本居宣長の門下生) 作

高田の白亜紀層に植物の化石:
高田から浮石に至る間、わずかに中生代白亜紀に属する有田層の礫岩及び砂岩、頁岩が挟まっています。古生層中に東も北も断層をもって境する三角地域で基盤と考えられる秩父系に属する緑色千枚岩質の礫を多く含んで岩石は著しく緑色を呈する植物の化石を含んでいます。

0.有田市から由良町にかけて、秩父帯が広がり、間に黒瀬川帯が挟まっています

1.今回の行程 「宮崎の鼻」は北向きの岬になるようです

2.高田海岸 浮石より見る西有田自然公園

3.みなさん、熱心に石検定

4.ここは石英脈が入り込んだ石がほとんどだ

5.赤色チャートもごろんごろん

6.アコウの木がスゴイ!!!

7.須佐神社 本殿にお参り

8.ここは、桃が家紋? そうです、珍しい「夏桃」です

9.有田市内を遠望

10.千田(ちだ)漁港の浜で楽しいランチ

11.赤色チャート・緑泥岩の礫がはいった地層

12.一方、ここは大きな赤色チャートがごろんと貫入している

13.この大岩は 千田(ちだ)のしわくちゃ岩 と命名

14.押されて押されて圧縮された様子が見える

15.朽ちた木の年輪のようにも見える

16.少し移動しただけでも様々な特徴の岩と出会える

17.砂利の中から緑色岩も顔を出す

18.洗面器に絵の具を流したような美しい曲線が

19.結晶片岩の下部は曲線模様の砂岩泥岩互層が

20.これこれ!化石違うん?・・・ (ようわからんわ;;)

21.みかん海道の斜面にゴミが沢山捨てられている;;

22.命名 「金時豆入りのチラシ寿司」

23.海の中での積もり方の様子も見えますね

24.カラフル礫が集まっている岩体・・・うーん(炊き込みご飯のようだ)

25.千田漁港から道路工事の下まで探訪 石英の塊がまるで煉り飴のように混じってる

26.ちょっくら記念写真

27.座り心地の良い緑色岩

28.これこれ!結構な大きさの「亀の手」

29.水切り大会・・・♪うまく飛んでくれ・・ましたw

30.ヒメユズリハも防風林として頑張っています

31.天気は良かったが、この日は徳島が見えませんでした;

32.遠景右端が白崎海洋公園 有田海岸ブルーの美しい海が広がっています

33.展望塔でもパチリ

34.予定外の宮崎ノ鼻の付け根、女の浦漁港も訪問

35.岬に続く岩肌にでっかい石英脈が走っている

36.のろし場ってどんなとこ? とりあえず行こう!

37.宮崎の鼻灯台までは結構遠いみたい;

38.この案内板に距離表記があるといいですね

39.ネズミモチ 下に落ちている実を潰してみるとフツーの草っぽい匂いでした

40.船越の浜はプライベートビーチのよう

41.16時ごろ 漁船が戻ってきた。 ひょっとして最終組かなー 遠景の左の島 沖ノ島
  右が 地ノ島 玄武岩の島らしく緑色に見えます

42.この案内板も距離表示あれば って思いました。

43.これが宮崎の鼻 灯台までは行けそうですがタイムオーバーなので今回は諦めます

2021.01.31 23:22 | 固定リンク | 研究会活動履歴

- CafeNote -