第37回 早春の日高川龍神見学会
2022.03.13
2022 0313少しうす曇でしたが、29(<-31)名の参加でした。
2022 0318の紀伊民報みなべ龍神欄に以下掲載されました。
2022 0313 「早春の日高川龍神見学会」が紀伊民報に掲載、Y記者さんに簡潔にまとめていただきました。参加の皆さん、ありがとうございました。
::::::::::::::::
田辺ジオ研究会 「活用の機運高めたい」龍神村で現地学習会
田辺市や周辺の住民有志でつくる「田辺ジオパーク究会」(藤五和久会長) は、 市内各地の目然資源を調査して魅力を掘り起こし、発信するための活動を続けている。13日には会員が同市龍神村で見どころを巡った。「ジオパークという観点で活用する機運を高めたい」という。
研究会は2015年1月に発足し、市内にある地質や地形の見どころなどを探し出して調査や研究をしてきた。 会員が知識を深めるための勉強会や現地学習会は毎月のように開いている。一般向けの講演会や現地ツアーは、ここ2年ほどは新型コロナウイルで中止しているが、それまでは毎年開いてきた。
13日の現地学習会には会員31人が参加し、龍神村の各地を巡った。柳瀬の日高川にある「檜皮(ひわだ)の滝」では、 会員で南紀熊野ジオパークガイドの上森安さん (71)龍神村龍神が説明した。川底や両岸が黒っぽくて荒々しい岩盤になっており、 それがヒノキの皮のようであることから名付けられたという。激しく蛇行した箇所があり、かつて盛んだった山から切り出した木材を運ぶ筏(いかだ)流しでは、 難所だったことも紹介した。
1889 (明治2)年8月の大水害で、 下柳瀬地区で発生した深層崩壊による土砂夕ムの跡地も訪れた。案内役を務めた地元区長の吉本志朗さん(70) が「合併で誕生したばかりの中山路村の中心地一帯が水に漬かり、83人が死亡した」 と説明した。復興に30年ほどかかり、1938 (昭和13) 年に水難者慰霊碑が建立されたことにも触れた。龍神村龍神の龍神温泉も訪ねた会員は、 自然湧出泉だけでなく、 ボーリンク泉を活用し、温度は48度で風呂に適していることなどの説明を聞いた。 木のように見える特徴的な地層「グルーブキャスト」を観察したり、小説にも登場する「曼荼羅(まんだら) の滝」を訪れたりもした。
上森さんは「龍神村には他にも、赤壷の滝や白壷の滝がある小森谷渓谷、丹生ノ川の環流丘陵など見どころはある。豊かな自然資源をもっとPRしていきたい」と話す。田辺市は、日本ジオバークに認定されている「南紀熊野ジオパーク」のエリアに含まれておらず、 昨年夏、自然資源の価値を再発掘し活用に向けた研究をするための専門委員会を発足させ、調査研究をしている。田辺ジオバーク研究会は「貴重な地域資源を守り、活用するためにもジオパークの認定は必要」としており藤五会長は「田辺市にはたくさんの見どころがある。 市民にもっと興味を持ってもらえればと思う」 と話している。
パンフは以下のような文面にて紹介いたしました。
2022 03/13(日) 早春の日高川龍神見学会
今回は、柳瀬近辺に始まり、龍神温泉付近とおおまかに二箇所で見学会をおこないたいと思います。檜皮の滝 ここは日高川の7(8?)大難所のひとつ 何の難所かというと筏流しの難所ですね。滝というと普通は水が流れ落ちるものを想像しますが、激流のことです。
詳細はHPの研究会活動履歴201904の中に、上越方(かみこしかた)発電所訪問・自主研修報告内に筏師物語 筏師と日高川八滝(激流の難所)のところに記述がありますのでご参照ください。現場で見ることができるのは、砂岩優勢のタービダイトが直立した岩が日高川に削られて檜皮のようにささくれたっている様相が見えると思います。 キーワード:穿入蛇行
このあたりは極端な穿入蛇行があることで有名です。昔はこの蛇行の中を筏流しをせざるを得なかったのですね。
柳瀬発電所 http://www.suiryoku.com/gallery/wakayama/yanase/yanase.html
現在は関西電力所属 発電.comを見ての通り1919年運用開始 落差49M キーワード 流筏路
(りゅうばつろ)発電と筏産業の併用を開始したことがキーですね。20世紀初頭のダイナマイトの普及もあります。流筏路というトンネルができたことにより大幅にバイパスが可能になったが、インクラインという事象が出てきたことになります。キーワード:インクライン インクラインて何?
1889年(明治22年)8月19日 台風による自然ダム崩壊 死者83人以上
ここは東西に音無川付加シークエンス(音無川層群)の栃谷スラストが通っている。
左図はほぼ南北に切った場合の西側から地層を見ていることになります。
橋の下に見える褶曲はある程度変形していますが、栃谷スラストの一部ではないかと思います。方向はほぼ東西方向になっており、直立しています。
龍神村西付近(龍神行政局付近)
龍神村西付近は、 四万十付加体とよばれる地質体からできています。 付加体は地層がスラスト (紀伊半島では北に傾料する逆断層)によってくり返す地質構造で特徴づけられます。この地域は御坊-十津川スラスト(断層)を境に北側の日高川帯と南側の音無川帯に分けられます。日高川帯には龍神付加コンプレックスとよばれる地層や岩石からできています。これは白亜紀の終わりごろ(はぼ恐竜の絶滅の時期) に海溝に堆積した地層や岩石できています。また、赤色泥岩や緑色泥岩、玄武岩溶岩(枕状溶岩を含む)など海洋性の岩石をともなっているのが特徴です。音無川带には、泥岩、砂岩泥岩互層 (タービダイト),砂岩などの地層からできています。これらは古第三紀の暁新世~始新世のころ、海溝に堆積した地層です。小~中規模の褶曲が多くみられます。スラストの上盤(北側)には地層が破壊されてできた断層破砕帯が密着し固結してできた断層岩がともなっています。
->>今回は、この断層岩を観察してみたいと思います。
海洋性岩石の場所は今回は時間的に観察不可ですので行きません。道路から見ることができます。
龍神温泉
龍神温泉は泉温約50℃の炭酸水素ナトリウム泉で、竜神付加コンプレックスの砂岩および砂岩がち砂岩泥岩互層から湧出している。龍神温泉付近では付加体の構造が北東一南西および北西一南東にのびる摺曲によって屈曲している。その北西にのびる背斜構造に沿って湧出している。本宮一阿田和弧状岩脈の一部がこの付近の地下に達していると考えられる。泉源は4つあり, 一つがボーリング泉(掘削深度約30m)である.写真中央の横穴からの自然湧出泉とボーリング泉が利用されている。
->>湯本背斜
温泉街の上方に300メートルくらいの距離ですが、日高川の右岸に砂岩優勢のタービダイトがあり、これにより背斜であることが確認できます。
グルーブキャスト(Groove Cast)
これは直訳すると‘溝の型’になりますが、地層の上部の泥層にたまたま小石等が流れ込んで溝をつくりそこに砂岩がたまり、その砂岩が地層として現れたものになります。
この地層では、ここの湯本背斜に沿って直立した格好に
なっています。
曼荼羅の滝(まんだらのたき)
これは小説の世界になりますが、中里介山の大作時代小説「大菩薩峠」の主人公「机龍之介」が目の治療のために目を洗ったところです。往復30分くらい、温泉街より登ったところにあります。
小又川・マンガン鉱・龍神鉱山・枕状溶岩
以前、2016年の見学では坑道は閉鎖されていましたが、最近別の坑道を教えていただきました。
以下の写真になります。
枕状溶岩は、2016年に訪問したときは川の中に鎮座していたのですが、今回(2022/0223)確認すると以前見た枕状溶岩は流されてしまったようです。
2022 0318の紀伊民報みなべ龍神欄に以下掲載されました。
2022 0313 「早春の日高川龍神見学会」が紀伊民報に掲載、Y記者さんに簡潔にまとめていただきました。参加の皆さん、ありがとうございました。
::::::::::::::::
田辺ジオ研究会 「活用の機運高めたい」龍神村で現地学習会
田辺市や周辺の住民有志でつくる「田辺ジオパーク究会」(藤五和久会長) は、 市内各地の目然資源を調査して魅力を掘り起こし、発信するための活動を続けている。13日には会員が同市龍神村で見どころを巡った。「ジオパークという観点で活用する機運を高めたい」という。
研究会は2015年1月に発足し、市内にある地質や地形の見どころなどを探し出して調査や研究をしてきた。 会員が知識を深めるための勉強会や現地学習会は毎月のように開いている。一般向けの講演会や現地ツアーは、ここ2年ほどは新型コロナウイルで中止しているが、それまでは毎年開いてきた。
13日の現地学習会には会員31人が参加し、龍神村の各地を巡った。柳瀬の日高川にある「檜皮(ひわだ)の滝」では、 会員で南紀熊野ジオパークガイドの上森安さん (71)龍神村龍神が説明した。川底や両岸が黒っぽくて荒々しい岩盤になっており、 それがヒノキの皮のようであることから名付けられたという。激しく蛇行した箇所があり、かつて盛んだった山から切り出した木材を運ぶ筏(いかだ)流しでは、 難所だったことも紹介した。
1889 (明治2)年8月の大水害で、 下柳瀬地区で発生した深層崩壊による土砂夕ムの跡地も訪れた。案内役を務めた地元区長の吉本志朗さん(70) が「合併で誕生したばかりの中山路村の中心地一帯が水に漬かり、83人が死亡した」 と説明した。復興に30年ほどかかり、1938 (昭和13) 年に水難者慰霊碑が建立されたことにも触れた。龍神村龍神の龍神温泉も訪ねた会員は、 自然湧出泉だけでなく、 ボーリンク泉を活用し、温度は48度で風呂に適していることなどの説明を聞いた。 木のように見える特徴的な地層「グルーブキャスト」を観察したり、小説にも登場する「曼荼羅(まんだら) の滝」を訪れたりもした。
上森さんは「龍神村には他にも、赤壷の滝や白壷の滝がある小森谷渓谷、丹生ノ川の環流丘陵など見どころはある。豊かな自然資源をもっとPRしていきたい」と話す。田辺市は、日本ジオバークに認定されている「南紀熊野ジオパーク」のエリアに含まれておらず、 昨年夏、自然資源の価値を再発掘し活用に向けた研究をするための専門委員会を発足させ、調査研究をしている。田辺ジオバーク研究会は「貴重な地域資源を守り、活用するためにもジオパークの認定は必要」としており藤五会長は「田辺市にはたくさんの見どころがある。 市民にもっと興味を持ってもらえればと思う」 と話している。
パンフは以下のような文面にて紹介いたしました。
2022 03/13(日) 早春の日高川龍神見学会
今回は、柳瀬近辺に始まり、龍神温泉付近とおおまかに二箇所で見学会をおこないたいと思います。檜皮の滝 ここは日高川の7(8?)大難所のひとつ 何の難所かというと筏流しの難所ですね。滝というと普通は水が流れ落ちるものを想像しますが、激流のことです。
詳細はHPの研究会活動履歴201904の中に、上越方(かみこしかた)発電所訪問・自主研修報告内に筏師物語 筏師と日高川八滝(激流の難所)のところに記述がありますのでご参照ください。現場で見ることができるのは、砂岩優勢のタービダイトが直立した岩が日高川に削られて檜皮のようにささくれたっている様相が見えると思います。 キーワード:穿入蛇行
このあたりは極端な穿入蛇行があることで有名です。昔はこの蛇行の中を筏流しをせざるを得なかったのですね。
柳瀬発電所 http://www.suiryoku.com/gallery/wakayama/yanase/yanase.html
現在は関西電力所属 発電.comを見ての通り1919年運用開始 落差49M キーワード 流筏路
(りゅうばつろ)発電と筏産業の併用を開始したことがキーですね。20世紀初頭のダイナマイトの普及もあります。流筏路というトンネルができたことにより大幅にバイパスが可能になったが、インクラインという事象が出てきたことになります。キーワード:インクライン インクラインて何?
1889年(明治22年)8月19日 台風による自然ダム崩壊 死者83人以上
ここは東西に音無川付加シークエンス(音無川層群)の栃谷スラストが通っている。
左図はほぼ南北に切った場合の西側から地層を見ていることになります。
橋の下に見える褶曲はある程度変形していますが、栃谷スラストの一部ではないかと思います。方向はほぼ東西方向になっており、直立しています。
龍神村西付近(龍神行政局付近)
龍神村西付近は、 四万十付加体とよばれる地質体からできています。 付加体は地層がスラスト (紀伊半島では北に傾料する逆断層)によってくり返す地質構造で特徴づけられます。この地域は御坊-十津川スラスト(断層)を境に北側の日高川帯と南側の音無川帯に分けられます。日高川帯には龍神付加コンプレックスとよばれる地層や岩石からできています。これは白亜紀の終わりごろ(はぼ恐竜の絶滅の時期) に海溝に堆積した地層や岩石できています。また、赤色泥岩や緑色泥岩、玄武岩溶岩(枕状溶岩を含む)など海洋性の岩石をともなっているのが特徴です。音無川带には、泥岩、砂岩泥岩互層 (タービダイト),砂岩などの地層からできています。これらは古第三紀の暁新世~始新世のころ、海溝に堆積した地層です。小~中規模の褶曲が多くみられます。スラストの上盤(北側)には地層が破壊されてできた断層破砕帯が密着し固結してできた断層岩がともなっています。
->>今回は、この断層岩を観察してみたいと思います。
海洋性岩石の場所は今回は時間的に観察不可ですので行きません。道路から見ることができます。
龍神温泉
龍神温泉は泉温約50℃の炭酸水素ナトリウム泉で、竜神付加コンプレックスの砂岩および砂岩がち砂岩泥岩互層から湧出している。龍神温泉付近では付加体の構造が北東一南西および北西一南東にのびる摺曲によって屈曲している。その北西にのびる背斜構造に沿って湧出している。本宮一阿田和弧状岩脈の一部がこの付近の地下に達していると考えられる。泉源は4つあり, 一つがボーリング泉(掘削深度約30m)である.写真中央の横穴からの自然湧出泉とボーリング泉が利用されている。
->>湯本背斜
温泉街の上方に300メートルくらいの距離ですが、日高川の右岸に砂岩優勢のタービダイトがあり、これにより背斜であることが確認できます。
グルーブキャスト(Groove Cast)
これは直訳すると‘溝の型’になりますが、地層の上部の泥層にたまたま小石等が流れ込んで溝をつくりそこに砂岩がたまり、その砂岩が地層として現れたものになります。
この地層では、ここの湯本背斜に沿って直立した格好に
なっています。
曼荼羅の滝(まんだらのたき)
これは小説の世界になりますが、中里介山の大作時代小説「大菩薩峠」の主人公「机龍之介」が目の治療のために目を洗ったところです。往復30分くらい、温泉街より登ったところにあります。
小又川・マンガン鉱・龍神鉱山・枕状溶岩
以前、2016年の見学では坑道は閉鎖されていましたが、最近別の坑道を教えていただきました。
以下の写真になります。
枕状溶岩は、2016年に訪問したときは川の中に鎮座していたのですが、今回(2022/0223)確認すると以前見た枕状溶岩は流されてしまったようです。
田ジ研自主研修 みなべ町・平須賀城探索
2022.02.06
2022年2月6日
田辺ジオパーク研究会自主研修・平須賀城(207m)
講師 渡瀬先生
参加者 浜田 林 上森 福田 畑中
今冬一番の寒い日(雪がちらついていた)2月6日(日)に田辺ジオパーク研究会、自主研修があった。行先は、みなべ町の平須賀城。
実はこの平須賀城には、約15年前に個人的に数回訪れたことがある。でも、ジオの会で行くのなら別の視点から楽しめるのではと思い、参加した。
集合地のうめ振興館の駐車場に8時30分頃到着。先着の車の中に車輪付近に沢山の雪が付着した車があった。後で上森氏の車と判明。(龍神はかなりの積雪があったようだ。)
うめ振興館の開館を待って中に入る。本日の講師さんの渡瀬先生から本日の資料をいただき平須賀城の模型(県内では何と三つしかないそうだ。他の2つは、和歌山城と手取城)を見ながら色々と説明していただいた。先ずは大まかな歴史について,次に典型的な中世の山城のモデルであること。 そして、平須賀城の構造について~居住や儀式のための空間~曲輪(郭)と戦いのための空間(堀切,土橋、畝状空堀群、堅堀など)に区画されている等。
9時30分頃に道案内の渡瀬車と他2台に分乗していざ出発。少し車を走らせたところで先頭車が停車。渡瀬先生から、「ここから平須賀城跡の山が正面(みなべ川方面)に見えている」と教えて頂いた。これは初めて知ることで、なかなか立派な山だ。標高は207m。
この先、車は左折し、鶴ノ湯温泉の方に入って行くではないか? 私が15年前に行った折はもっとまっすぐに奥の方(みなべ川方面)に行ったけれど、、、、。
左折して5分もしない内に車を駐車。ここから歩き始めるようだ。この辺りの地名は玉(だま)というようだ。(うめ振興館でもらった城跡までのアクセスにはこの通り)建物の横から畑の道を通り山道へと入っていく。足もとには、ヤマアイ(山藍)が群生している。
平須賀城への登りは いきなりの急登。ジクザグと急斜面を10分位登ると尾根筋に出るとゆるやかな登りになった。ウバメ樫の木が多い。後ろを振り返るとテレビのアンテナがある。帰りに下る目印と教えていただく。しばらく道なりに登っていくと案内標識があり、そこから左に折れて、すすきの刈りあらけた跡を登って行くとついに山頂に着いた。(城跡までは案内によると 1.3km 約40分とある)登る道々、渡瀬先生から(堀切、畝状空堀群などの軍事施設や曲輪などの住居や儀式のための空間など)現地で実際に説明していただきながら大手ルートを山頂まで登った。山頂からの展望は、みなべの町並や須賀神社の森が見え、遠く海まで見渡すことができた。山頂での記念撮影のあと、強風を避けて昼食をとった後、見残していた区画にも足を伸ばした後、下山した。
15年前に私がみなべ川方面の登山口(梅畑)から登った時の印象はそれ程高度もないし、だだっ広い感じがあり、あまり大したことなかったなというのが本音でした。
2月6日、本日、玉(だま)の登山口から登った平須賀城の印象は「目からうろこ」で(規模の大きさ、主郭部のつくり、曲輪に入る虎口や武者かくし等々……)こんなに立派な城跡
だったんだと驚きと感動で一杯になりました。どうもありがとうございました。
文責 畑中富子
概要
2月6日 みなべ町 平須賀城址巡検より紀南の風物詩 北西の風が吹きすさぶ日
メンバーのW氏にレクチャー頂いた南北400m 東西500mの城址は県内有数の規模
先ず、みなべ川沿いの梅振興館内で平須賀城ジオラマと瓜谷層を見学(館内オープン中)
所々、河原焼きの跡が残るみなべ川を少し登り鶴の湯温泉方面に走る
(なるほど!ここからとは・・)
初めて一人で行くには分かりにくい道 室町時代前期に紀伊の守護 畠山氏によってこの場所に築かれたようですが、内紛の争奪戦が何度も繰り返されたようです。
その後、子守護代として武蔵国出身の野辺氏が居住するに至り、このような典型的な中世山城モデルの城址が出来たようです。
(資料より)
最初の急斜面登り約20分は滑りやすく危ない;危ない;
山頂の禿山状態の箇所は、瓜谷層の岩が崩れやすい特徴がよく現れている
細かく割れた岩の破片の上を滑り台のようにズルズルっと滑るから
(登り方が下手なのか;)
が、苦労して登った山城のてっぺん景色は何より、この日のご褒美だった♪
1.
瓜渓石(うりだにいし)は、今から約六千万年前の新生代初め、 海底に堆積していた泥岩層である「耳谷層」 とよばれる地域から産する石です。地中より掘り出されたときは、 石の表面に黒色の泥岩が付着していたり、 風化のために赤褐色になった土で覆われていますが、 愛好家の手にかかるとたちまち見事な盆石となります
深山幽谷を想う山水景と変化にとむ厳に加えて、 なめらかな石の肌が特筆されます。紀伊続風土記には 「漂布石」 として、また紀伊名所図会には 「盆石」として紹介されるほど古来より産出したものと思われますが、 発掘の歴史は、 割り合い新しく、 盆石としての価値を
認められたのは天保年間(1830 年代)で、 木こりの手によって発見されました。
江戸時代には、田辺藩が石番を置き、みだりに採掘することを禁じたこともあり、この禁が解かれたのは、 西南戦争(明治 10 年)の頃だと言われています。 したがって名石といわれたものは明治以降に掘り出されたものが多く、 その中でも名品といわれるものは、 地元はもちろん、県内外の愛好家の間で愛蔵·秘蔵されています。
ここに展示された瓜渓石も名石のひとつで、幅 120 cm高さ 45 cm奥行き82 cmの梅源郷を連想する品格の高い、見事な盆石です。
2.
3.
4.
5.
6.
田辺ジオパーク研究会自主研修・平須賀城(207m)
講師 渡瀬先生
参加者 浜田 林 上森 福田 畑中
今冬一番の寒い日(雪がちらついていた)2月6日(日)に田辺ジオパーク研究会、自主研修があった。行先は、みなべ町の平須賀城。
実はこの平須賀城には、約15年前に個人的に数回訪れたことがある。でも、ジオの会で行くのなら別の視点から楽しめるのではと思い、参加した。
集合地のうめ振興館の駐車場に8時30分頃到着。先着の車の中に車輪付近に沢山の雪が付着した車があった。後で上森氏の車と判明。(龍神はかなりの積雪があったようだ。)
うめ振興館の開館を待って中に入る。本日の講師さんの渡瀬先生から本日の資料をいただき平須賀城の模型(県内では何と三つしかないそうだ。他の2つは、和歌山城と手取城)を見ながら色々と説明していただいた。先ずは大まかな歴史について,次に典型的な中世の山城のモデルであること。 そして、平須賀城の構造について~居住や儀式のための空間~曲輪(郭)と戦いのための空間(堀切,土橋、畝状空堀群、堅堀など)に区画されている等。
9時30分頃に道案内の渡瀬車と他2台に分乗していざ出発。少し車を走らせたところで先頭車が停車。渡瀬先生から、「ここから平須賀城跡の山が正面(みなべ川方面)に見えている」と教えて頂いた。これは初めて知ることで、なかなか立派な山だ。標高は207m。
この先、車は左折し、鶴ノ湯温泉の方に入って行くではないか? 私が15年前に行った折はもっとまっすぐに奥の方(みなべ川方面)に行ったけれど、、、、。
左折して5分もしない内に車を駐車。ここから歩き始めるようだ。この辺りの地名は玉(だま)というようだ。(うめ振興館でもらった城跡までのアクセスにはこの通り)建物の横から畑の道を通り山道へと入っていく。足もとには、ヤマアイ(山藍)が群生している。
平須賀城への登りは いきなりの急登。ジクザグと急斜面を10分位登ると尾根筋に出るとゆるやかな登りになった。ウバメ樫の木が多い。後ろを振り返るとテレビのアンテナがある。帰りに下る目印と教えていただく。しばらく道なりに登っていくと案内標識があり、そこから左に折れて、すすきの刈りあらけた跡を登って行くとついに山頂に着いた。(城跡までは案内によると 1.3km 約40分とある)登る道々、渡瀬先生から(堀切、畝状空堀群などの軍事施設や曲輪などの住居や儀式のための空間など)現地で実際に説明していただきながら大手ルートを山頂まで登った。山頂からの展望は、みなべの町並や須賀神社の森が見え、遠く海まで見渡すことができた。山頂での記念撮影のあと、強風を避けて昼食をとった後、見残していた区画にも足を伸ばした後、下山した。
15年前に私がみなべ川方面の登山口(梅畑)から登った時の印象はそれ程高度もないし、だだっ広い感じがあり、あまり大したことなかったなというのが本音でした。
2月6日、本日、玉(だま)の登山口から登った平須賀城の印象は「目からうろこ」で(規模の大きさ、主郭部のつくり、曲輪に入る虎口や武者かくし等々……)こんなに立派な城跡
だったんだと驚きと感動で一杯になりました。どうもありがとうございました。
文責 畑中富子
概要
2月6日 みなべ町 平須賀城址巡検より紀南の風物詩 北西の風が吹きすさぶ日
メンバーのW氏にレクチャー頂いた南北400m 東西500mの城址は県内有数の規模
先ず、みなべ川沿いの梅振興館内で平須賀城ジオラマと瓜谷層を見学(館内オープン中)
所々、河原焼きの跡が残るみなべ川を少し登り鶴の湯温泉方面に走る
(なるほど!ここからとは・・)
初めて一人で行くには分かりにくい道 室町時代前期に紀伊の守護 畠山氏によってこの場所に築かれたようですが、内紛の争奪戦が何度も繰り返されたようです。
その後、子守護代として武蔵国出身の野辺氏が居住するに至り、このような典型的な中世山城モデルの城址が出来たようです。
(資料より)
最初の急斜面登り約20分は滑りやすく危ない;危ない;
山頂の禿山状態の箇所は、瓜谷層の岩が崩れやすい特徴がよく現れている
細かく割れた岩の破片の上を滑り台のようにズルズルっと滑るから
(登り方が下手なのか;)
が、苦労して登った山城のてっぺん景色は何より、この日のご褒美だった♪
1.
瓜渓石(うりだにいし)は、今から約六千万年前の新生代初め、 海底に堆積していた泥岩層である「耳谷層」 とよばれる地域から産する石です。地中より掘り出されたときは、 石の表面に黒色の泥岩が付着していたり、 風化のために赤褐色になった土で覆われていますが、 愛好家の手にかかるとたちまち見事な盆石となります
深山幽谷を想う山水景と変化にとむ厳に加えて、 なめらかな石の肌が特筆されます。紀伊続風土記には 「漂布石」 として、また紀伊名所図会には 「盆石」として紹介されるほど古来より産出したものと思われますが、 発掘の歴史は、 割り合い新しく、 盆石としての価値を
認められたのは天保年間(1830 年代)で、 木こりの手によって発見されました。
江戸時代には、田辺藩が石番を置き、みだりに採掘することを禁じたこともあり、この禁が解かれたのは、 西南戦争(明治 10 年)の頃だと言われています。 したがって名石といわれたものは明治以降に掘り出されたものが多く、 その中でも名品といわれるものは、 地元はもちろん、県内外の愛好家の間で愛蔵·秘蔵されています。
ここに展示された瓜渓石も名石のひとつで、幅 120 cm高さ 45 cm奥行き82 cmの梅源郷を連想する品格の高い、見事な盆石です。
2.
3.
4.
5.
6.
田辺ジオ塾 第7回 鉱山と岩脈
2022.01.15
2022.0115 第7回田辺ジオ塾が開催されました。Sさんによる「鉱山と岩脈」,最近のみなべの行者山付近の活動を含め、楽しく語っていただきました。こんなに鉱山がたくさんあったの?という印象と山師てどんな人たちなの?という印象でした。写真は泥岩らしいが、1.5倍くらい重量のある石ですが、本当は?。 鉱物としてはアンチモニー、マンガン、銅関係金属が多そうでした。お疲れ様でした。
添付のチャートの鉱山名と付随する温泉をまとめてみました。
1.白崎鉱山 石灰岩 由良町白崎
2.中津川鉱山 マンガン 川辺町中津川
3.中志賀鉱山 アンチモニー 日高町中志賀
4.三十井川鉱山 マンガン 中津村三十井川
5.皆瀬鉱山 黄銅鉱・黄鉄鉱 美山村皆瀬
6.李鉱山 マンガン 美山村李
7.初湯鉱山 アンチモニー 美山村下湯川初湯(うぶゆ)
8.和佐献山 水銀(試掘)川辺町和佐
9.玉谷鉱山 マンガン 龍神村玉谷
10.大熊鉱山 アンチモニー 龍神村大熊
11.小又川鉱山 マンガン 龍神村小又川
12.丹生ノ川鉱山 水銀 龍神村丹生ノ川
13.岩代鉱山 銅(詳細不明)南部町東岩代内ノ地
14.玉(だま)鉱山 詳細不明 南部川村西本庄玉(だま)
15.鉛山(かなやま)鉱山 方鉛鉱・黄鉄鉱・斑銅鉱 白浜町湯崎
16.清水(きよみず)鉱山 銀・銅・鉛 上富田町市ノ瀬清水谷
17.野中鉱山 黄銅鉱 中辺路町野中
18.山陽鉱山 コバルト すさみ町大都河の防己
19:柏郡鉱山 銅 古座川町三尾川
20.池田鉱山 銅 古座川町明神
21.坂足鉱山 銅 那智勝浦町色川坂足
22.浦神鉱山 銀・銅 太地町下里浦神
23.妙法鉱山 金・銀・黄銅鉱・斑銅鉱・輝銅鉱・黄鉄鉱・閃亜鉛鉱 那智勝浦妙法山周辺
24.南平野鉱山 銅 那智勝浦町色川南平野
25,紀州鉱山 黄銅鉱・四面銅鉱・黄鉄鉱・硫砒鉄鋼・閃亜鉛鉱・方鉛鉱・錫石・蛍石 ・自然金・自然銀 三重県南牟婁郡紀和町入鹿
26.神川鉱山 ? 熊野市神川町土場
27.育生鉱山 黄銅鉱 熊野市育生町大河原
A,広川温泉
B,由良温泉
C.三尾大谷温泉
D.川上温泉
E.龍神温泉
F.玉川温泉
G.南部温泉
H.鮎川温泉
I.白浜湯崎温泉
J.湯ノ峰温泉
K.川湯温泉
L.湯ノ花温泉
M.勝浦温泉
N.湯川温泉
添付のチャートの鉱山名と付随する温泉をまとめてみました。
1.白崎鉱山 石灰岩 由良町白崎
2.中津川鉱山 マンガン 川辺町中津川
3.中志賀鉱山 アンチモニー 日高町中志賀
4.三十井川鉱山 マンガン 中津村三十井川
5.皆瀬鉱山 黄銅鉱・黄鉄鉱 美山村皆瀬
6.李鉱山 マンガン 美山村李
7.初湯鉱山 アンチモニー 美山村下湯川初湯(うぶゆ)
8.和佐献山 水銀(試掘)川辺町和佐
9.玉谷鉱山 マンガン 龍神村玉谷
10.大熊鉱山 アンチモニー 龍神村大熊
11.小又川鉱山 マンガン 龍神村小又川
12.丹生ノ川鉱山 水銀 龍神村丹生ノ川
13.岩代鉱山 銅(詳細不明)南部町東岩代内ノ地
14.玉(だま)鉱山 詳細不明 南部川村西本庄玉(だま)
15.鉛山(かなやま)鉱山 方鉛鉱・黄鉄鉱・斑銅鉱 白浜町湯崎
16.清水(きよみず)鉱山 銀・銅・鉛 上富田町市ノ瀬清水谷
17.野中鉱山 黄銅鉱 中辺路町野中
18.山陽鉱山 コバルト すさみ町大都河の防己
19:柏郡鉱山 銅 古座川町三尾川
20.池田鉱山 銅 古座川町明神
21.坂足鉱山 銅 那智勝浦町色川坂足
22.浦神鉱山 銀・銅 太地町下里浦神
23.妙法鉱山 金・銀・黄銅鉱・斑銅鉱・輝銅鉱・黄鉄鉱・閃亜鉛鉱 那智勝浦妙法山周辺
24.南平野鉱山 銅 那智勝浦町色川南平野
25,紀州鉱山 黄銅鉱・四面銅鉱・黄鉄鉱・硫砒鉄鋼・閃亜鉛鉱・方鉛鉱・錫石・蛍石 ・自然金・自然銀 三重県南牟婁郡紀和町入鹿
26.神川鉱山 ? 熊野市神川町土場
27.育生鉱山 黄銅鉱 熊野市育生町大河原
A,広川温泉
B,由良温泉
C.三尾大谷温泉
D.川上温泉
E.龍神温泉
F.玉川温泉
G.南部温泉
H.鮎川温泉
I.白浜湯崎温泉
J.湯ノ峰温泉
K.川湯温泉
L.湯ノ花温泉
M.勝浦温泉
N.湯川温泉
田辺ジオ塾 第6回 日高川水系徒然
2021.12.18
第36回 大塔村安川渓谷周辺散策
2021.12.12
行程:アーカイブ 2015年08月に同じサイトを訪問して詳細を記入済みです。
ご参考にしてください。
9:30赤ホヤ火山灰層(小川)→
9:40漣痕(赤滑)→
10:00乙女の湯(公衆トイレ)→
10:10タブの巨木(大塔村天然記念物)→
10:40安川渓谷駐車場→安川渓谷ハイキング→
12:00安川渓谷駐車場(昼食)→
13:00修験の滝→
13:30~14:30平瀬(大塔歴史民俗資料館・乙女の寝顔・河岸段丘・熊野酸性岩脈)→
15:30乙女のしずく→熊野(いや)
阪本氏からの手記・写真をいただきました。(以下)
昨日(12月12日)、田辺ジオ研主催の、田辺市(旧大塔村)下川下にある「安川渓谷」周辺散策に出かけました。まずは大塔行政局に集合。ここはかつて『大塔村史』編纂の際によく編纂会議が開かれた場所。私は古代・中世担当の執筆委員として加えていただいていました。
当日、30名が集まり、9台の車に分乗して出発。私はH氏やT氏らとともに気心の知れたU氏の車に乗せてもらいました。
まずは牟婁層群打越累層の砂岩泥岩互層から湧き出したアルカリ性単純泉の「乙女の湯」所在地でトイレ休憩。
当研究会の藤五和久会長に案内されアカホヤなどの火山灰が降り注いだ地層が残る地点(残念ながらシダで覆われていたため全く見えず)、さざ波の化石ともいわれる「流痕(リップルマーク)」が残る崖、巨大なタブノキ、その近くの日置川支流に架かる橋の下の牟婁層群打越累層の砂岩泥岩互層などをゆっくりと見学した後、今回のメイン地点である「安川渓谷」に向かう。
ようやく「安川渓谷」の駐車場に到着し、1枚目の写真にあるように日置川支流に架かる橋の上から「安川渓谷」の一部を眺めました。何やら心の高まりが聞こえてくるようです。
2枚目の写真。ようやくその渓谷美を誇る「安川渓谷」に足を踏み入れました。牟婁層群の安川累層の泥岩がちの砂岩泥岩互層の様相が何となく見てとれます。3枚目・4枚目の写真もよくご覧ください。
5枚目の写真は、鎖場(くさりば)の続く怖い怖い場所を撮ったものです。ここでその時作った即席の川柳を一首。「鎖道、滑ってころんで、あの世ゆき」。
6枚目の写真は、これ以後、滑り易い下り坂が続くため、今回の目的地である「雨乞いの滝」まで後少しといったところで、様子を見てくると云って先行した主催者から待機を要請された場所の写真です。遅れてやってきた私も腰が痛くて青息吐息。
7枚目の写真は、安全を期して今回は全員で行くことを断念し、私も行っていない「雨乞いの滝」の写真ですが、今回の案内役・藤五和久氏からご提供いただきました。改めて感謝申し上げます。この近くの地層の割れ目に火成岩脈の熱水の影響を受けたと見られる水晶の結晶があること、さらには白色の方解石(炭酸カルシウム)の堆積層が見られることも明らかにされています。では、これは何を示しているか、研究者による科学的な解明が期待されています。
この後、別の場所にある「修験の滝」を見に行きましたが、この滝については次回に写真とともに紹介させてもらいます。
そして、何十年間かぶりに、平瀬という地名通りの典型的な河岸段丘上にある「大塔歴史民俗資料館」に立ち寄って、山仕事の道具類や農作業の道具類、日本オオカミのキバ(レプリカ)などを見学。昔来た時には日本オオカミの全体の剥製を見たように記憶しているのですが、あれはどうなったのかなあ。
地元では有名な「乙女の寝顔」を眺めつつ、最後に、そのモデルとなった半作嶺の、登山口に至る林道の途中にある「乙女のしずく」と呼ばれる湧水地点に到着。
そして、このまま熊野(いや)地区や合川ダム方面に向かったようですが、私は疲れゆえに途中かなり長い時間にわたって眠り扱けていたため、帰り着くちょっと前に目が覚めるまで記憶は全くありませんでした(笑)。
文章工事中
安川渓谷での集合写真です
これは「乙女の寝顔」だろうか?
1.
以下、Wikiより
鬼界アカホヤ火山灰(きかいアカホヤかざんばい)は、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火に伴って噴出した火山灰。幸屋火砕流と同時に噴出した火山灰のうち、上空に噴き上げられてから地上に降下したものをいう。テフラとしての記号はK-Ah。AKの略称でも呼ばれる。
白色または淡褐色(オレンジ色)を呈し、農業には適さない。
火山灰に覆われた面積は約200万km2、体積は約100km3にもなる。偏西風にのって東北地方まで到達した。九州南部において地下の比較的浅い場所に厚さ約1mの層をなしており、四国、中国地方西南部および紀伊半島においても層として確認することができる。種子島では、20~40cm、琵琶湖では3~5cmの厚さである。また、層が不明瞭な地域においては土壌分析によって検出可能であり、おおむね日本全域で確認されている。
宮崎県の農家の間でアカホヤと呼ばれていた地層について調査した結果、人吉市付近のイモゴ、種子島のアカボッコ、四国南部のオンジなど、似たような地層が日本各地に分布していることがわかり、1976年(昭和51年)に鬼界カルデラを起源とする火山灰であることが確認された[1]。
地層の年代決定において縄文時代の草創期と早期とを分ける重要な鍵層の一つになっている。特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は幸屋火砕流が直撃し、当時居住していた縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられている。
・・・///////////////////
餅搗かぬ里
六世紀の風習を破り お詫びの餅献上
紀州鮎川村民の恐懼(きょうく)
大塔宮様 六百年祭の一挿話
逆臣の兇刃に御最期を遂げ給ひし大塔宮護良親王の六百年祭は来る十八日より三日間、御最期の地鎌倉の官弊中社鎌宮で盛大に拳行され、殊に大祭当日の十九日は祭典の御模樣を全国に中継放送することになっているが、この輝く 六百年祭を前に紀州鮎川の一寒村が六百年の風習を破ってはじめて餅を搗き同宮大祭に献ずることとなった。
しかもこれは実に六百年前、戦塵妖雲の巷に落も延び給う大塔宮様に対し租先が冒せし過ちに対し全村民が今にして捧ぐる悔悟の結晶なのである。
元私元年十月二十九日の夜大塔宮護良親王には逆賊討伐の戦いに利あらず、追ってを避けさせられつつ供奉の人々と共に紀州點川に落ち給うたが深夜険路の御長途に携へ給う食もなく空腹の限りに在らせられた、その時村は亥の子祭で農家は戸毎に粟餅を作り軒先に吊るしていた。
宮にはせめてこれでもと思召し餅を所望されたところ、農家ではすでに「落ち人には食を与えてはならなぬ」との禁令がまわっていたので後難を恐れて之を拒み奉った。落ち人の身の如何ともし難く宮の御一行は空腹の儘落ち延び給うた。村人はその後これが 大塔宮の御一行と知り大に恐懼、以来六百年全村民正月と雖も餅も搗かず、ひたすらに宮に対する謹慎をしていたが、今年輝く六百年祭の御盛儀を聞き伝え、永き風習を破ってはじめて餅を搗き村民の代表が東上、十九日神前に棒け六自年の過去のお許しを乞うことになりこれを機会に正月の餅搗きの行事を復活すると言う。
2.赤滑の漣痕(れんこん リップルマーク 波の化石):崩れてきましたね
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
ご参考にしてください。
9:30赤ホヤ火山灰層(小川)→
9:40漣痕(赤滑)→
10:00乙女の湯(公衆トイレ)→
10:10タブの巨木(大塔村天然記念物)→
10:40安川渓谷駐車場→安川渓谷ハイキング→
12:00安川渓谷駐車場(昼食)→
13:00修験の滝→
13:30~14:30平瀬(大塔歴史民俗資料館・乙女の寝顔・河岸段丘・熊野酸性岩脈)→
15:30乙女のしずく→熊野(いや)
阪本氏からの手記・写真をいただきました。(以下)
昨日(12月12日)、田辺ジオ研主催の、田辺市(旧大塔村)下川下にある「安川渓谷」周辺散策に出かけました。まずは大塔行政局に集合。ここはかつて『大塔村史』編纂の際によく編纂会議が開かれた場所。私は古代・中世担当の執筆委員として加えていただいていました。
当日、30名が集まり、9台の車に分乗して出発。私はH氏やT氏らとともに気心の知れたU氏の車に乗せてもらいました。
まずは牟婁層群打越累層の砂岩泥岩互層から湧き出したアルカリ性単純泉の「乙女の湯」所在地でトイレ休憩。
当研究会の藤五和久会長に案内されアカホヤなどの火山灰が降り注いだ地層が残る地点(残念ながらシダで覆われていたため全く見えず)、さざ波の化石ともいわれる「流痕(リップルマーク)」が残る崖、巨大なタブノキ、その近くの日置川支流に架かる橋の下の牟婁層群打越累層の砂岩泥岩互層などをゆっくりと見学した後、今回のメイン地点である「安川渓谷」に向かう。
ようやく「安川渓谷」の駐車場に到着し、1枚目の写真にあるように日置川支流に架かる橋の上から「安川渓谷」の一部を眺めました。何やら心の高まりが聞こえてくるようです。
2枚目の写真。ようやくその渓谷美を誇る「安川渓谷」に足を踏み入れました。牟婁層群の安川累層の泥岩がちの砂岩泥岩互層の様相が何となく見てとれます。3枚目・4枚目の写真もよくご覧ください。
5枚目の写真は、鎖場(くさりば)の続く怖い怖い場所を撮ったものです。ここでその時作った即席の川柳を一首。「鎖道、滑ってころんで、あの世ゆき」。
6枚目の写真は、これ以後、滑り易い下り坂が続くため、今回の目的地である「雨乞いの滝」まで後少しといったところで、様子を見てくると云って先行した主催者から待機を要請された場所の写真です。遅れてやってきた私も腰が痛くて青息吐息。
7枚目の写真は、安全を期して今回は全員で行くことを断念し、私も行っていない「雨乞いの滝」の写真ですが、今回の案内役・藤五和久氏からご提供いただきました。改めて感謝申し上げます。この近くの地層の割れ目に火成岩脈の熱水の影響を受けたと見られる水晶の結晶があること、さらには白色の方解石(炭酸カルシウム)の堆積層が見られることも明らかにされています。では、これは何を示しているか、研究者による科学的な解明が期待されています。
この後、別の場所にある「修験の滝」を見に行きましたが、この滝については次回に写真とともに紹介させてもらいます。
そして、何十年間かぶりに、平瀬という地名通りの典型的な河岸段丘上にある「大塔歴史民俗資料館」に立ち寄って、山仕事の道具類や農作業の道具類、日本オオカミのキバ(レプリカ)などを見学。昔来た時には日本オオカミの全体の剥製を見たように記憶しているのですが、あれはどうなったのかなあ。
地元では有名な「乙女の寝顔」を眺めつつ、最後に、そのモデルとなった半作嶺の、登山口に至る林道の途中にある「乙女のしずく」と呼ばれる湧水地点に到着。
そして、このまま熊野(いや)地区や合川ダム方面に向かったようですが、私は疲れゆえに途中かなり長い時間にわたって眠り扱けていたため、帰り着くちょっと前に目が覚めるまで記憶は全くありませんでした(笑)。
文章工事中
安川渓谷での集合写真です
これは「乙女の寝顔」だろうか?
1.
以下、Wikiより
鬼界アカホヤ火山灰(きかいアカホヤかざんばい)は、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火に伴って噴出した火山灰。幸屋火砕流と同時に噴出した火山灰のうち、上空に噴き上げられてから地上に降下したものをいう。テフラとしての記号はK-Ah。AKの略称でも呼ばれる。
白色または淡褐色(オレンジ色)を呈し、農業には適さない。
火山灰に覆われた面積は約200万km2、体積は約100km3にもなる。偏西風にのって東北地方まで到達した。九州南部において地下の比較的浅い場所に厚さ約1mの層をなしており、四国、中国地方西南部および紀伊半島においても層として確認することができる。種子島では、20~40cm、琵琶湖では3~5cmの厚さである。また、層が不明瞭な地域においては土壌分析によって検出可能であり、おおむね日本全域で確認されている。
宮崎県の農家の間でアカホヤと呼ばれていた地層について調査した結果、人吉市付近のイモゴ、種子島のアカボッコ、四国南部のオンジなど、似たような地層が日本各地に分布していることがわかり、1976年(昭和51年)に鬼界カルデラを起源とする火山灰であることが確認された[1]。
地層の年代決定において縄文時代の草創期と早期とを分ける重要な鍵層の一つになっている。特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は幸屋火砕流が直撃し、当時居住していた縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられている。
・・・///////////////////
餅搗かぬ里
六世紀の風習を破り お詫びの餅献上
紀州鮎川村民の恐懼(きょうく)
大塔宮様 六百年祭の一挿話
逆臣の兇刃に御最期を遂げ給ひし大塔宮護良親王の六百年祭は来る十八日より三日間、御最期の地鎌倉の官弊中社鎌宮で盛大に拳行され、殊に大祭当日の十九日は祭典の御模樣を全国に中継放送することになっているが、この輝く 六百年祭を前に紀州鮎川の一寒村が六百年の風習を破ってはじめて餅を搗き同宮大祭に献ずることとなった。
しかもこれは実に六百年前、戦塵妖雲の巷に落も延び給う大塔宮様に対し租先が冒せし過ちに対し全村民が今にして捧ぐる悔悟の結晶なのである。
元私元年十月二十九日の夜大塔宮護良親王には逆賊討伐の戦いに利あらず、追ってを避けさせられつつ供奉の人々と共に紀州點川に落ち給うたが深夜険路の御長途に携へ給う食もなく空腹の限りに在らせられた、その時村は亥の子祭で農家は戸毎に粟餅を作り軒先に吊るしていた。
宮にはせめてこれでもと思召し餅を所望されたところ、農家ではすでに「落ち人には食を与えてはならなぬ」との禁令がまわっていたので後難を恐れて之を拒み奉った。落ち人の身の如何ともし難く宮の御一行は空腹の儘落ち延び給うた。村人はその後これが 大塔宮の御一行と知り大に恐懼、以来六百年全村民正月と雖も餅も搗かず、ひたすらに宮に対する謹慎をしていたが、今年輝く六百年祭の御盛儀を聞き伝え、永き風習を破ってはじめて餅を搗き村民の代表が東上、十九日神前に棒け六自年の過去のお許しを乞うことになりこれを機会に正月の餅搗きの行事を復活すると言う。
2.赤滑の漣痕(れんこん リップルマーク 波の化石):崩れてきましたね
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.