第7回南紀熊野ジオパークフェスタ@串本町 に出展参加
2020.02.15
第7回南紀熊野ジオパークフェスタ@串本町 に出展参加

【日時】令和2年2月15日(土)10時~15時30分
【場所】シンポジウム:串本町文化センター(串本町串本2427)
    ブース出展等:串本町立体育館(串本町串本2427)  
【主催】南紀熊野ジオパーク推進協議会・環境省近畿地方環境事務所
【目的】南紀熊野ジオパークの主要部分を占める吉野熊野国立公園と連携をしながら、地域関係者の理解・協力・参加を促進するとともに、認知度・理解度の向上を図ることにより、ジオパーク活動を推進し、持続可能な地域づくりを目指します。
  ---->>>価値ある地域の魅力を再発見!楽しく、美味しく!   

うす曇でしたが、寒くもなく盛況の模様でした。ジオパークも遠くは桜島から、今回はペシャワール会も参加されていました。シンポは平朝彦氏の「南紀熊野ジオパークが語る日本列島の誕生」で白亜紀から4つのステップに分けての説明でした。特に地球号の期待される成果では、
・上部マントルの試料採取
 マントルの組成、 物性を調べることにより地球の起源やマントルの対流現象などに対
 する画期的発見が期待できる。
 マントル対流は大陸移動、 火山活動などの原動力
・巨大地震の震源域の直接観測
 プレート境界面を直接調へることにより、震源領域の破法のしくみを解明レ、地震予測 の高度化に貢献する
 プレート境界面から直接試料採取
・地下生物圈の探査
 原始地球に酷似した環境に生息する生物を調査し地球生命誕生と進化の に迫る。
・地球理境の変動
 過去の異なった地球の姿を知り、未来の環境を予測する
 例:コア資料に含まれるプランクトン化石
特に地震津波の早期検知のDONETと縦に掘った孔(あな)に観測装置を連携させた装置ではスロースリップ(SlowSlip)現象が発見され、歪の蓄積30-55%開放されている可能性があるらしい。平朝彦氏の「日本列島の誕生」はもう30年前(1990年)の発刊です。

1.一般の方々が沢山来場されていました。昨年は白浜町 一昨年は那智勝浦町で開催

2.水理実験中 さてさて小さな見学者にわっかってもらえるかなー(^_-)-☆

3.当会の重鎮たち(^_-)-☆

4.あおうみがめ 2,3日は水無しでもOKらしい

5.ヤマサ醤油なんかは元々紀州ですね。

6.遠路 桜島・錦江湾からもhttp://www.sakurajima-kinkowan-geo.jp/

7.平和医療団日本 中村哲医師のご冥福をお祈り申し上げますhttp://www.peshawar-pms.com/

8.世界に一つだけのウニランプ製作中

9.滝の拝のボウズハゼ君は食欲旺盛!毎日 館内ガイドからコケ付き石の差し入れが

10.利き酒ならず 利き温泉クイズです

11.吉野熊野国立公園は奈良県、三重県、和歌山県の3県にまたがっています

12.ここでも真剣な顔で岩石標本作りの重鎮メンバーがw

13.基調講演講師 平朝彦先生http://www.jpgu.org/jpgufellow/jpgufellow-919/

14.13:30から基調講演が始まりました

15.日本列島は世界で最も地球活動が活発な場所だそうです

16.フィリピン海プレートの表面が陸側に潜り込む時にはぎとられて相手方に張り付く

17.すさみフェニックス褶曲の出来方図です

18.な!なんと!フィリピン海プレートは3000㎞も移動してきたようです☆彡

19.グーグルアースをズームアップしてみてね

20.人間がいないころ、このあたりも大きな噴火があちこちにあった

21.南紀熊野は3種類の岩体で構成されています(付加体、火成岩、前弧海盆堆積体)

22.地震、津波観測監視システム

23.南海トラフにもスロースリップの痕跡がはっきりと確認できたようです

24.最後は分かり易くまとめて下さいました

25.30年前に発刊された先生のご著書

2020.02.15 23:10 | 固定リンク | 研究会活動履歴
田ジ研自主研修 尾鷲市三木崎園地巡検
2020.02.11
2020 0211 昨年の11月に引き続き、東紀州巡検。自主研修ですが、行いが如何によいのか大晴天で暑いくらいでした。総勢8名、途中から1名の参加。行程は以下、事故もなく無事終了ですが、結構歩きがハードでした。今回は東紀州ジオパーク構想準備会会長 K氏とM氏、F氏のサポートをいただき、まことにスムーズに事を運ぶことができました。K氏にまとめていただいたテーマは、「三木崎灯台と長バエ海岸観察会」でした。ありがとうございました。
以下、行程です。

*******行程*******
08:00 滝尻集合
09:30 花の窟にて休憩
10:10 JR三里駅集合  
10:30 出発
10:50 木名峠狼煙場着
11:20 三木崎園地めぐり出発
12:20 三木崎灯台着 昼食 東紀州ガイドさんの説明
13:00 東バエ海岸へ出発
13:40 東バエ海岸より帰途
15:10 三木崎園地入り口着 散会
16:00 花の窟にて休憩
17:30 滝尻帰着

この一帯は吉野熊野国立公園特別地域に指定されているらしく、この沿岸一帯が断崖絶壁、木名峠狼煙場からは条件がよければ、富士のお山が見えるらしい。三木崎園地に入ると途中途中に丸い石がごろごろ、コアストーンですね。地元の方には珍しくもないでしょうが、紀伊半島でも西の人たちには珍しいかもしれません。流紋岩(花崗斑岩)の玉ねぎ状風化との説明があり、納得。三木崎灯台は昭和3年11月点灯開始東紀州の海を見守り続けています。灯台を管理する尾鷲保安部には昭和19年に熊野灘沖を震源とする東南海地震に発生した状況「震度6」「沈下」「回転灯器破損」など細かく記録されているようです。屋根に戦時中の機銃掃射の後が、あるようでしたが、定かにはわかりませんでした。
長バエ(碆?)海岸までは道無き道を下り、柱状節理の浜を小時間でしたが、観察しました。六角形の柱が海岸を埋め尽くし、先の浜には丸い石(ごろた石と呼ばれているコアストーン?)がごろごろ集まって浜で洗われているような不思議な場所でした。帰りは昆虫の観察会をしながらの帰途でした。オオキンカメムシ、初めての遭遇でしたが、臭くないてんとう虫のようなかわいいカメムシなんですね。越冬中を起こしてしまいました。

以下、K氏より頂戴した「木名峠の狼煙場」の解説です。
木名峠の狼煙場
紀州藩は海防に深い関心を寄せ、初代紀州藩頼宣は寛永年間(1624~44)に、浦組制度を確立し寛永十二年(1635)に船見番(遠見番所)を重要な岬の突端に設置した。熊野灘の沖合いを航行する異国船を発見したとき、使用の人夫を地元の庄屋宅へ走らせるのはもちろんであるが、近隣の浦村へ急を知らすため狼煙をあげた。
正徳六年「奥熊野 相賀組(おうかぐみ)浦組帳」では、他の組の人数を集める時には、のろしを(一筋)上げよ。左右の組はのろしを見つけ次第、事のある浦へかけ集まれ。
もっと多くの組を呼び集める時には、のろしを二筋、よく見えるように上げよ。左右の組は一筋ずつのろしを上げて隣の組に知らせ、その上村継で、どの浦を助けるべきかを伝えよ。
異国船の注進があったら、山番(狼煙立てあるいは見張り役か)を付け、のろしが上がるのを見逃さないようにせよ。
他の組の人数を呼び集める時には、のろしだけでなく村継でも伝えるようにせよ。

九木崎の狼煙場で煙があがれば、木名峠、梶賀の地切山と次々に狼煙があげられたと思われるが木名峠から九木崎は、早田の山にさえぎられて見えない。
各狼煙場には「狼煙立て」が任命され、木名峠は三木浦の長之右衛門、九木崎では九鬼島之助忠房、楯ケ崎では、番人は浜田惣八・大屋藤助の二人で他に補助的な番人として浜田惣兵衛(惣八の子)・北口五郎次・佐々木熊次郎がいた。遊木丹羽平は遊木浦の善七。明治2年(1869年)に遠見番所が廃止されるまで遠見番の世襲が続き番人をつとめたようだ。

「狼煙」と描くのは、狼の糞を松の青葉に混入して燃やすと、煙がまっすぐ上にあがるという中国の伝説によるもので、各狼煙場では、狼糞三升五合~五升、青松葉60貫を蓄えて置かなければならなかった。しかしながら、これらの狼煙場は火を焚いた形跡が見当たらないので、実際使用されたかどうかは不明。また狼煙を上げる緊急事態が起きなかったのか? 天気等に左右させるので、実際の行動は村継が活用されたのか?狼煙場には、2本立てと3本立ての2種があり、通常は転石を饅頭型に積みあげたものが3つ並ぶが、木名峠の場合は輪切型である。
明治2年(1869)遠見番所と狼煙場は廃され、同時に取り壊したものが多いが、木名峠の場合は雑木林に守られ、創設当時の姿を今に残している。
「紀伊続風土記」天保十年(1839) 狼煙場 村の東三木崎木名峠に阿り と、記載されている。
1.今回のルート ハイキングコースですが、斜面上り下りがあるので結構健脚向きかも

2.予定時間に到着はしたけれど・・・慌てて近場のファミマ🍙に走る

3.三木浦湾 綺麗です。

4.「ここから富士山が見えるんやで」ガイドさんたちのお蔭で地元の方から声をかけて頂く

5.2月11日とは思えないほどの上天気 白波も立っていない!

6.狼煙をあげていたといわれるこのような跡が数か所も残っています

7.34年前に文化財として指定されています

8.そうそう!忘れないうちに記念写真を・・(時々忘れます;)


9.木名峠狼煙場跡
尾鳶市指定文化柱(史?》
昭和61年9月29日指定
藩政期に入り異国船の出没が激しくなると、幕府は海岸を防備する必要から、各藩に浦組制度を開設させ、遠見番所や狼煙場を設置させた。奥熊野の遠見番所や狼煙場の創設設は寛水年間といわれ、寛水12年(1625)には文書にも所見される。九木崎遠見番が、熊野灘の沖合を航行する異国船を発見したとき、使用の人夫を地元の庄屋宅へ走らせるのはもちろんであるが、近隣の浦村へ急を知らすための狼煙をあげた。九木崎の狼煙場て煙があがれば、この木名峠、梶賀の地切(ちぎり)山と次々に狼煙があげられた、そのため各狼煙場には「狼煙立て」が任命され、木名峠は三木浦の長之右衛門てあった。ノロシを狼煙と書くのは、狼の糞を松の青葉に混入して燃やすと、煙かまっすく上にあがるという中国の伝説によるもので、各狼煙場では狼糞三升五合~五升、青松葉60貫をたくわえて置かわはならなかった。狼煙場には二本立てと三本立ての二種があり、通常は転石を饅頭(まんじゅう)型に精みあけたものが三つ並ぶが、木名峠の場合は輪切り型という変わったケースである。明治2年(1869)遠見番所と狼煙場は廃され、同時に取り壊したものか多いが、この木名峠の狼煙場は雑木林に守られ、創設当時の姿を今に残レている。
尾薦市教育委員会

9A.沢山の狼煙場地図

10.さあ!三木崎灯台に向かってレッツゴー(笑 古いゎ)

11.早速、デッカイ恐竜の卵や、花火の玉のような丸い形の岩・岩・岩が

12.東紀州ジオパーク構想準備会会長K氏は驚くほどの健脚! (待ってくださーい;)

13.可愛いヤブツバキにも声掛けご挨拶を 

14.まるで玉ねぎの皮を剥ぐように外側から崩れていく不思議な様ですね

15.逞しい根っこに抱え込まれ身動きできない!?

16.何てったてこの配置と大きさが羨ましい! 手を合わせてお見事♪

17.この木(こ)も、お気に入りのコアストーンにしっかり跨って(がんばれー)

18.擦り傷後のかさぶたがガッツリ剥がれるような感じ

19.あっちにもこっちにも硬い岩がきれいに丸くなっています

20.おやおや!ここにもお気に入りの岩を見つけた逞しい木がw

21.吉野熊野国立公園特別域内に遊歩道もあります。 

22.ランチタイム コンクリートはホッカホカの暖房入りのよう



23.昭和3年11月からの現役灯台

24.逓信省管轄地 ところで郵便局の〒(テ)は、明治20年に考案されたようです

25.キョウチクトウ科サカキカズラの冠毛の手触りは結構しっかり系(有毒)

26.海の中の大岩は転石のような

27.断崖絶壁に向かい斜面を下る 戻りを考えると「・・・う~~ん;;」

28.炭焼き跡には生活の名残りが

29.これこれ!この岩場 紀伊半島の西側では超珍しい光景なんです!

30.むかしの遊びケンケンパーが出来そう♪(それは、ここでは危ない危ないよー)

31.これが熊野灘!? 波しぶきがほとんど見当たりません

32.波打ち際にはデッカイ丸石がゴロゴロ タイムオーバーで近寄れず残念!

33.美しい海の色! 私たちはこの地球を今預かっているのです!

34.オオキンカメムシの冬眠の様子

35.起こしてしまったかも; 彼らも同じ模様は無いらしい

36.お疲れさまー 花の窟にて



2020.02.11 00:51 | 固定リンク | 研究会活動履歴
田ジ研自主研修 奈良二上山・亀の瀬近辺
2019.12.12
2019 12/12 今回は、参加者が生憎と集まらず’ひとりカラオケ’ならぬ ひとり自主研修 になってしまいました。先ず、香芝市西方の穴虫峠の’ドンズルボー’(屯鶴峯)に始まり、二上山博物館(江戸時代までは、ふたかみさん、それ以後はにじょうざんと呼ぶらしい)亀の瀬地すべり歴史資料室の見学の3点でした。屯鶴峯はかなり広い、まだ採石しているようでした。白色凝灰岩の観察、これが石棺に使われた? 遠目で白い鶴が屯(たむろ)しているというので、屯鶴峯となった模様です。二上山というとサヌカイト(無班晶質古銅輝石安山岩)ですが、二上山博物館では3つの石ということで常設されています。サヌカイト(旧石器時代、縄文時代、弥生時代)、凝灰岩(古墳時代、飛鳥時代etc)、金剛砂(近代)の3石を時代ごとに利用してきた(きている)ということです。三者とももともと火山活動(1000万年以上前)によって生産されたものであり、特に金剛砂とは、二上山の火山活動に伴う溶岩の噴出で、石切場火山岩の中にザクロ石が捕獲岩として含まれた。この石切場火山岩が長い年月を経て風化流出し、低地に堆積した石榴(ざくろ)石を金剛砂と呼ばれています。亀の瀬地すべり歴史資料室では国交省の担当者が概要を説明、その後、排水トンネルと最近発見された80年前の関西本線の亀瀬トンネルの見学を行いました。たまたま、高安山ハイキング帰りのグループに混ぜていただきスムーズに見学ができました(Lucky!) 地すべりは当然、すべり面があるわけですが、これも昔の火山活動による重たいドロコロ溶岩が粘性帯のすべり面に乗りすべってしまうのが原因のようです。昭和40年ごろからほぼ50年間の対策事業(計4兆円とか)であり、外国からの見学者も多いようです。大和川は奈良盆地から大阪湾に注ぐ唯一の川であり、この亀の瀬あたりは地すべり災害の典型地で土砂ダムができれば、奈良盆地・大阪平野への水災害は巨大です。(写真16の概要を参照ください)

1.屯鶴峯 どんづる峯 ドンズルボウ

2.奇勝です。入り口は立派ですね。

3.屯鶴峯は二上火山群の雄峰。

4.

5.一見、田辺市のひき岩群のようです

6.まさに、凝灰岩そのものです。右下の写真。部分的に簡単に崩れます。

7.二上山博物館に来ました。サヌカイトの木琴(?)いい音がします。

8.3つの石:香芝は古代から近代まで、二上山が産んだ3つの石で知られています。
・数万年前旧石器時代から2千年前の弥生時代に至るまで、青銅や鉄と同じくらい重要な
資源であったサヌカイト。5,6世紀に、王者の棺として切り出された二上山凝灰岩。
明治以降に全国の90%余りを占めた研磨剤としての金剛砂。

9.サヌカイトの巨礫

10.サヌカイトの掘削?

11.石棺-二上山凝灰岩で作成されている

12.大和川・亀の瀬渓谷にやってきました。

13.資料室ですが、質素です

14.主役が大和川 古代の大和川は淀川に流れていました

15.黄色い線が流域界

16.大和川の川幅が狭くなっている亀の瀬は、万葉の時代から大阪と奈良を結ぶ交通の要衝でした。亀の瀬は明治の近代以降も、大規模な地すべりが発生して社会基盤や人々の暮らしに大きな影響を与えてきました。昭和6~7年(1931 ~ 2)には峠地区を中心に30mすべって鉄道トンネルが崩壊、大和川も 9m 隆起して上流に浸水被害を与えました。国は隆起した
川底(河床)を掘削し、水の流れを確保しました。その後も、地すべりの滑動は継続し、昭和26年(1951)頃には地内の西側がすべり出し、さらに同 42年(1967)には東側で26m※すべり、大和川の川幅を 1m 狭めるなど大きな被害がおきました。地すべりが発生すると大和川の流れが妨げられ、上流側に浸水被害を与えます。さらに地すべりの土砂が崩壊すれば下流側に土石流が一気に流れ出て、大阪市街地に大きな被害を与えると考えられています。
亀の瀬地すべりは想定される甚大な被害、 1km 四方に及ぶ規模の大きさ、高度な技術を要することなどから、 国土交通省(旧建設省)大和川河川事務所が昭和37年(1962) から直轄で対策事業を行ってきました。対策事業は、地すべり解明のための調査、専門の土木技術者·学識経験者による対策の検討、 対策工事の実施、 対策工事の効果の検証を繰り返し半世紀の歳月をかけて実施しており、 近年は地すべりの動きがほとんど見られなくなってきました。いま、亀の瀬地すべりは高度な土木技術を駆使して止めていますが、 大阪と奈良の安全を確保するためには、今後も監視を続けていかねばなりません。本資料室で地すべりの被害と対策の歴史に触れ、 実際に現地を見ていただくことにより、 みなさまのご理解が深まることを願っております。 国土交通省 近畿地方整備局 大和川河川事務所

17.昭和7年9月 対岸・明神山からの眺め

18.昔徒歩で超えるときに、峠に休憩所があったようだ

19.昭和7年の地すべり見学の様子

20.

21.しゅうすいせいこう と読む

22.集水の模式図 -横から見た図です

23.集水井がどういう配置にされているかの説明-横2段階に設置されている

24.すべり面の粘土 筋が入っている

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26.

27.亀のモチーフの排水トンネル

28.

29.

30.直径6.5メートルの集水孔

31.

32.すべり面?

33.集水井工(しゅうすいせいこう)直径6m位です

34.集水井工(しゅうすいせいこう)-->集水井工は地すべり地内の地下水を減らして、地すべりを動きにくくする工法です。地すべりの土のかたまりに縦に深い井戸(集水井)を掘り、ここで集めた水は、 地表の水路または地下の排水トンネルで地すべり地の外へ流し出します。

35.中を俯瞰

36.遺構に向かうトンネルへ

37.昔の関西本線のトンネルが発見されました

38.黒ずんでいるのは石炭の煤(蒸気機関車)

39.使用のレンガの実物

40.アーチ型の下部のレンガは短い 上部(天井)は長いレンガを使用

41.

42.

43.亀の瀬岩(石?)

2019.12.12 18:53 | 固定リンク | 研究会活動履歴

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