田辺ジオ塾 第14回 前編 畠島訪問記
2023.03.18
田ジ研自主研修 早春の城跡探訪(龍神編)
2023.03.12
2023 03/12は待望のタジケン自主研修城跡探訪(龍神編),お天気も曇り空でしたが、活動しやすい気温になりました。午前は、山地玉置(さんじたまき)氏の鶴ヶ城、午後は鶴ヶ城の西方向 日髙川を挟んで対面にある鏡ヶ城を探索いたしました。総勢20名の参加でしたが、和歌山県城郭研究会所属の渡瀬・野田 両氏による説明・ガイドに楽しく拝聴させていただきました。平和裡に裏打ちされたお城であっただろうと説明されました。これは戦の跡がないことと通常は祭り事あるいはイベントが本丸で開かれていたのではないかという事です。9:30から登り始め、12:00に行政局に帰還、河原にてスラストを見ながら弁当タイム。13:00,地元の寒川氏と自宅前にて落ち合い、鏡ヶ城へ。用水池(江戸時代に設置?)の土手(バンク)を通り、本丸へ、金比羅山が祀られていた場所を確認。日高川を挟んだ対面の鶴ヶ城の眺望を満喫しながら下山。帰りに薬師堂の御開帳をいただき堪能の1日でした。
タジケン有志により、スラスト上流(モンペとクワの前)の枕状溶岩とメランジェ(御坊十津川スラストです)を観察、すぐ後に甲斐ノ川・桑ノ木まで行き、硅長質凝灰岩を観察して、STさん宅にておはぎを馳走になりと共に日本刀・甲冑等を鑑賞させていただき、その後お開きといたしました。ご馳走様でした&お疲れ様でした。
タジケン有志により、スラスト上流(モンペとクワの前)の枕状溶岩とメランジェ(御坊十津川スラストです)を観察、すぐ後に甲斐ノ川・桑ノ木まで行き、硅長質凝灰岩を観察して、STさん宅にておはぎを馳走になりと共に日本刀・甲冑等を鑑賞させていただき、その後お開きといたしました。ご馳走様でした&お疲れ様でした。
田ジ研自主研修 日高郷土学参加(手取城・権爺穴)
2023.03.04
2023 0304 日高川町・手取城・権爺穴探訪(日高郷土学)に参加させていただきました。もともと2022に計画予定していた事案です。
HさんのFB文言を拝借いたします。参考にしてください。
ひだか郷土学で手取城跡、権爺穴(水銀鉱採掘跡)を探訪しました。
参加者12名(田辺ジオパーク研究会より4名)
南海バスツアー客約30名と手取城跡で合流
玉置氏ーー日高川・竜神一帯を支配していた玉置氏は、もともと熊野の神官で十津川村の玉置神社とのゆかりが伝えられ14世紀になって龍神村の鶴ヶ城を築いたとされている。その一族が和佐村(日高川町)で手取城を築城。
手取城ーー東西約600m 南北約250mで県内最大の山城。日高川町指定文化財
日高川は、奥熊野より蛇行を重ね、紀伊半島の中央を東西に横切る大河で、北の紀ノ川・有田川に次ぐ清流である。その河口より約八キロ北東に入った所に築かれた山城が、手取城である。城跡からの見晴らしはよく、西方には玉置氏と同じく室町幕府の奉公衆であった湯河氏の亀山城も一望できる。
日高川上流の龍神村(田辺市龍神村)には、山地玉置氏の居城・鶴ヶ城がある。玉置氏はもともと熊野の神官で、奈良県十津川村の玉置神社とゆかりがあるとされ、同村より山地荘に進出したと推察されている。そして、その一族が日高川を下り、川上荘(日高川町)の領主・川上氏に取って代わり、和佐の別所谷に城を築いた。この玉置氏を和佐玉置氏と呼んだ。手取城の築城について、『紀伊続風土記」の上和佐村の項に「村の東十八町にあり東西二町南北一町、玉置氏の本城」と記述されている。現在も、東西約六〇〇×南北約二五〇メートルの遺構が残る(図1)。正確な築城時期はわからないが、城跡の表面採集による遺物から城が機能した時期を論じた北野隆亮氏は、およそ一四世紀の中頃~一六世紀頃まで使用されていたと推察している。なお、多くの陶器とともに、「菊の紋」が付いた瓦などの遺物も出土している。
所在地: 日高郡日高川町和佐・別所谷
権爺穴(ごんじあな)水銀鉱採掘跡
水銀朱とはーー硫化第二水銀のことで、硫黄と水銀の化合物である。赤色のものは辰砂(朱砂)と言い、この辰砂を蒸留精錬して水銀を取り出す。
朱砂とはーーー古代の人々にとって血液は生命そのものであったため赤色には血液と同等の価値を見出し畏怖し神聖なるものとした。血液を消失すれば死ぬと考えられたため古墳の石室や石棺、埴輪に朱を施し死者の蘇りを願った。
丹生とはーーー辰砂の採掘地は「にう」と呼ばれ、古代水銀鉱業を司る神としてニウツヒメが誕生した。「丹生」という表記が始まり辰砂の採掘に従事していた民も同じ漢字を使って姓を表記した。大和・紀伊にわたる水銀産地はニウツヒメ祭祀の始原地であった。
民間用途ーーー水銀白粉(顔料の他シラミ取りや駆梅剤として用いられた)。また仁丹、宝丹、清心丹とかの清涼剤があるが丹の字は丹砂つまり朱砂の意味で円とか丸の球体の意味ではない。
権爺穴(ごんじあな)まで700Mくらい。現在、3つの採掘鉱洞を見ることができます。
看板には:
川辺町の文化財
権爺穴(ごんじあな)
日高郡川辺町和佐
ここは標高180メートルの大峰山腹にある水銀鉱採掘遺跡である。俗説によると
いつの頃か権爺という人が探鉱のため六を掘ったが失敗に終ったところからこう呼ば
れるようになったという。
昔、この地に丹生明神が鎮座しており、水銀鉱採掘の起源の古さを物語っている。又、洞窟のそばにある観音堂には、延宝二年(1674)銘の石像観音菩薩が安置されている。
川辺町教育委員会
HさんのFB文言を拝借いたします。参考にしてください。
ひだか郷土学で手取城跡、権爺穴(水銀鉱採掘跡)を探訪しました。
参加者12名(田辺ジオパーク研究会より4名)
南海バスツアー客約30名と手取城跡で合流
玉置氏ーー日高川・竜神一帯を支配していた玉置氏は、もともと熊野の神官で十津川村の玉置神社とのゆかりが伝えられ14世紀になって龍神村の鶴ヶ城を築いたとされている。その一族が和佐村(日高川町)で手取城を築城。
手取城ーー東西約600m 南北約250mで県内最大の山城。日高川町指定文化財
日高川は、奥熊野より蛇行を重ね、紀伊半島の中央を東西に横切る大河で、北の紀ノ川・有田川に次ぐ清流である。その河口より約八キロ北東に入った所に築かれた山城が、手取城である。城跡からの見晴らしはよく、西方には玉置氏と同じく室町幕府の奉公衆であった湯河氏の亀山城も一望できる。
日高川上流の龍神村(田辺市龍神村)には、山地玉置氏の居城・鶴ヶ城がある。玉置氏はもともと熊野の神官で、奈良県十津川村の玉置神社とゆかりがあるとされ、同村より山地荘に進出したと推察されている。そして、その一族が日高川を下り、川上荘(日高川町)の領主・川上氏に取って代わり、和佐の別所谷に城を築いた。この玉置氏を和佐玉置氏と呼んだ。手取城の築城について、『紀伊続風土記」の上和佐村の項に「村の東十八町にあり東西二町南北一町、玉置氏の本城」と記述されている。現在も、東西約六〇〇×南北約二五〇メートルの遺構が残る(図1)。正確な築城時期はわからないが、城跡の表面採集による遺物から城が機能した時期を論じた北野隆亮氏は、およそ一四世紀の中頃~一六世紀頃まで使用されていたと推察している。なお、多くの陶器とともに、「菊の紋」が付いた瓦などの遺物も出土している。
所在地: 日高郡日高川町和佐・別所谷
権爺穴(ごんじあな)水銀鉱採掘跡
水銀朱とはーー硫化第二水銀のことで、硫黄と水銀の化合物である。赤色のものは辰砂(朱砂)と言い、この辰砂を蒸留精錬して水銀を取り出す。
朱砂とはーーー古代の人々にとって血液は生命そのものであったため赤色には血液と同等の価値を見出し畏怖し神聖なるものとした。血液を消失すれば死ぬと考えられたため古墳の石室や石棺、埴輪に朱を施し死者の蘇りを願った。
丹生とはーーー辰砂の採掘地は「にう」と呼ばれ、古代水銀鉱業を司る神としてニウツヒメが誕生した。「丹生」という表記が始まり辰砂の採掘に従事していた民も同じ漢字を使って姓を表記した。大和・紀伊にわたる水銀産地はニウツヒメ祭祀の始原地であった。
民間用途ーーー水銀白粉(顔料の他シラミ取りや駆梅剤として用いられた)。また仁丹、宝丹、清心丹とかの清涼剤があるが丹の字は丹砂つまり朱砂の意味で円とか丸の球体の意味ではない。
権爺穴(ごんじあな)まで700Mくらい。現在、3つの採掘鉱洞を見ることができます。
看板には:
川辺町の文化財
権爺穴(ごんじあな)
日高郡川辺町和佐
ここは標高180メートルの大峰山腹にある水銀鉱採掘遺跡である。俗説によると
いつの頃か権爺という人が探鉱のため六を掘ったが失敗に終ったところからこう呼ば
れるようになったという。
昔、この地に丹生明神が鎮座しており、水銀鉱採掘の起源の古さを物語っている。又、洞窟のそばにある観音堂には、延宝二年(1674)銘の石像観音菩薩が安置されている。
川辺町教育委員会