田辺ジオ塾 第5回 三栖真砂(まなご)家紹介とその他自由研究
2021.11.13
福田氏により、三栖真砂(まなご)家の紹介とその他の自由研究というお題でした。
現在の主家は1854年の安政南海地震で倒壊後、1862年に再建築されたものであり、
8年かかったのはその8年の間の安政年間の地震・台風等の災害が関係している。
自由研究ではジオと人との関わりに興味があり、南部の梅とジオの関係等を紹介された。






2021.11.13 20:47 | 固定リンク | 研究会活動履歴
第35回 那智勝浦町太田川周辺散策
2021.10.30
2021.10.30 田辺ジオパーク研究会第35回ジオサイト見学会・那智勝浦太田川周辺散策
10/30、先ず先ずの晴天の中、上記、那智勝浦太田川周辺散策ということで、研究会の会員・地学の元高校教諭・渡瀬氏により鋭意企画されました。32名の参加でした。!

行程:10:00下里神社→10:15尾捨山城跡→11:00御社森城跡→12:30諏訪神社(昼食)→14:30諏訪神社→色川氏屋敷跡→16:30西牟婁総合庁舎 着予定

太田川中流下流は景観が不思議なところです。和歌山県の河川は大体河岸段丘が見られますが、ここには見られません。隆起はしているのでしょうが、侵食・風化されやすい地盤なのでしょう。
今回、タジケンでは初めて城郭関係の専門的見方が披露されたと思いますが、土塁など実際に見ると興味が沸いてきます。
用語説明
曲輪(郭):堀や切岸 土塁などで区画された空間、 近世城郭の「丸」にあたる
堀切:尾根筋を断ち切る堀、 堅堀が続く場合もある
横堀:等高線と平行 (斜面横方向)に掘られた堀
堅堀:等高線と直交 (斜面縦方向)に掘られた堀
畝状堅堀:連続して設けられた堅堀群(堀と堀の間は土塁)
土塁:土を盛って(または削り残して) 造った土手
切岸:曲輪外側の斜面を削って急傾斜としたもの
虎口:城の出入り口
横矢掛かり:侵入する敵に対して側面攻撃をかける施設

「太田川の「環流丘陵」と「中世城郭群」」

1.太田川の環流丘陵
太田川は那智山に源を発し那智勝浦町下里で熊野灘に注ぐ、 全長24 km余りの二級河川です。短い流路ではありますが、源流部は日本有数の多雨地域であり、2011年の紀伊半島大水害の折には中下流では堤防決壊による浸水、上流では土石流により大きな災害を引きおこしたのは記憶に新しいところです。
過去の地質時代においても同様の洪水が幾度も発生し、平常時も絶え間ない侵食作用が続けられ、上流では下方侵食による深い谷が形成され、中下流では側方侵食が主にはたらいて蛇行が進み、 流路の短絡の結果、「環流丘陵」が発達しました。県内各地に「小森地形」が見られますが、平野部の独立丘陵としていくつも環流丘陵が存在するのが太田川の大きな特色です。

短い川ですが、4つの地層を流れ下ることになります。熊野酸性岩体(火山岩)の那智山から
三津野累層->敷屋累層->下里累層->海 です。

2.環流丘陵上の中世城郭群
太田川の環流丘陵で、さらに興味深いのは、 それぞれの丘陵上に中世の山城が設けられていることです。 下里から太田川をさかのぼると7つもの城跡を見ることができます。それぞれは大変小さい城で(御社森城を除く)防御性が低く、そこを守って戦うというような城ではありませんが、狭い地域にこのように城郭が密集しているのは大変珍しいことです。最近、国史跡に指定された日置川流域の中世城郭群と異なり、 残念ながら文献史料に乏しいため、歴史的な経緯は定かではありませんが、ある時期に軍事的な緊張が高まり、必要に迫られた結果、太田川流域にも城郭が多く築かれたことは確かなことでしょう。今回は小規模城郭の代表例として、「尾捨山(おすてやま)城跡」を見学し、その後、太田川流域にあってとりわけ大規模な城郭である「御社森山(みやしろのもりやま)城跡」を訪ねました。
その後、太田川に沿って色川地区まで、移動。川の景観(特に川原)を確認しながら、色川地区では清水氏屋敷跡の精緻な石垣(切込みハギ)を観察いたしました。
散策後、色川地区で解散となりました。(活動時間:08:15~17:30)

5.尾捨山城跡の見どころは!?
(1)南北37m, 東西25mという 小さな規模
(2)主郭と東西の帯曲輪のつくり
(3)主郭西側に残る土塁
(4)主郭に残る池 (?)·. 後世の遺構か?
6.御社森山城跡の見どころは!?
(1)南北180m、東西120mという他にない規模の大きさ
(3)造成がしっかり成された主郭
(4)何段にもわたる曲輪群
(5)築城主体がどの勢力か?

今回は、熊野層群の中の下里累層->敷屋累層->三津野累層と移動したことになります。

以下に、巡検中のスナップを掲載します。
1.還流丘陵のひとつ 大泰寺(だいたいじ)と尾捨山城跡に登ります

2.尾捨山城跡 景観 このお寺は草木が多い ミツマタらしい

3.泰山木 案内図 この大きな葉っぱはクワズイモ
* ここは「こころの薬師」!!!
大泰寺の薬師如来は、・紀宝町の平尾井薬師・熊野市の楊枝薬師・本宮の湯の峰薬師・新宮市佐野南珠寺の佐野薬師・那智勝浦町天満心寺の越水薬師・那智勝浦町湯川の温泉寺を合わせた熊野七薬師のうちの一つであります。
薬師如来は、左手に薬壷をお持ちになり、人々の病気を治し、寿命を延ばし、人々を病苦から救うとされております。そのため現世利益を求める多くの人が、古来より信仰しておりました。多くの場合、温泉の近くにお堂が立てられることが多く、当寺でも縁起によれば昔温泉が通出していたようであります。
また、それぞれ配られるように至った経緯や和り方から、特に効くとされる病気があるとされています。
熊野七薬師では、・平尾井薬師が「五臓六糖の病」・楊枝薬師が「頭痛」・湯の峰薬師が「頭の病」・佐野薬師が「目耳鼻口の病気」・越水薬師が「万病」・温泉寺が「足の病」に特に効くとされています
当寺院の薬師如来は、耳·歯·足の病や頭痛などの諸病はもとより、特に「こころの病」に効くとされています。

4.諏訪神社の傍の土手にてランチ 御社森山城跡に出撃 土塁・堀の薀蓄を

5.主郭にて集合写真

6.戦いに使った石つぶてだろうか? 色川への途中 太田川の景観を観察

7.何事? 石の観察と説明 花崗斑岩etc

8.切込み接ぎ(きりこみはぎ)の美しい清水氏の旧館跡

9.「色川の歴史」看板より以下、抜粋しました(判読可能部分)
平維盛:
中世、源平合戦で源氏に敗れた平維盛は、太田川を上り口色川に着く。峯山の「藤綱の要害」に身を隠すこと約二年、下山して口色川に住み、清らかな湧き水に因んで「清水」姓を名乗ったと伝えられている。安土桃山時代、清水家の子孫、色川 三九朗が天正18年(1590)豊臣秀吉の命を受けて、新宮川原で船百艘を建造し、秀吉が朝鮮出兵の時、同心三六人をれて出陣。その功によって秀吉から色川、八ヶ村他六ヶ村合わせて、二四ヶ村七二四石をもらったという。他にも平家にまつわる遺品が数多くあり、色川の歴史を深く読み取ることができる。
色川の地名の由来:
「色川」の地名の山来については、「紀伊続風上記」の「虚川(ウロカワ)」説、他に、「入る川」説、「の付いた川説」などがあるが、前述のように鉱毒によって川石が赤く染まっていたことから「色のついた川」説が納得のいく説であり、有力であると考えている。
色川姓サミット :
色川性が色川村に一軒もないのはなぜか? 調査の結果、分らないことが多いが、茨城県を中心に関東に多くあり、全国で約五00軒ある。元最高裁判事の色川幸大郎氏、作家色川武夫氏,歴史研究者の名誉教授色川大吉氏等がいて、他にも産業界で名を上げた人が多い。全国の色川さんに呼びかけ、「色川サミット」がすでに三回行われた。



2021.10.30 21:02 | 固定リンク | 研究会活動履歴
田辺ジオ塾 第4回 南方熊楠
2021.10.16
2021 1016
第4回の田辺ジオ塾 山本氏より南方熊楠のテーマで話されました。
小学館の漫画伝記シリーズをベースに一生を時系列にてまとめられた模様です。
最近入会された方のお子さんが、粘菌の研究の成果を模型と一緒に見せてくれました。有形無形の影響がある偉人だなと改めて感じさせていただきました。

1929年には昭和天皇が神島にお越しになり、南方熊楠が、島を案内し、粘菌や海中生物について標本を見せながら説明をしました。その後、天皇は「雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌を詠まれました。昭和天皇が詠まれた歌の中で個人名が出てくる歌は、大変少ないということですから、いかに神島と南方熊楠のことが印象に残ったかが伺えます。
2021.10.16 22:12 | 固定リンク | 研究会活動履歴

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